雪の夢は紅炎に舞い、火の鳥は氷花と翔ぶ
月のないその夜、街の明かりも妙にけぶって見えていた。天の星々もどこかひっそりとしている。
――闇が街にわだかまっているようだ……空気もどこか淀んでいるし……
そんな感覚に知らず、藍色の髪を一つに結った少年、楓は眉を寄せる。
街の明かりはいつも通りに点いているのに、闇が濃く感じられもする。
「楓さん?」
楓の隣を行くセーラー服姿の少女、京堂扇奈が小さく首を傾げた。夜闇の中でも楓の表情の変化を感じたらしい。
「どうかしましたか?」
「ああ、うん。ちょっと、嫌な感じだなって思ってね……。気分が悪いとかじゃないから、大丈夫だよ」
「確かに、嫌な感じがします」
ゆっくりと周囲を見回し、扇奈は言う。
「初めてじゃないのに、慣れないものだね」
「慣れないぐらいでいい」
楓達の前を行く白いコートの男――嘉神慎之介が低く言った。時折、ちりん、と鈴の音がするのは嘉神の傍らの黒い服を纏った幼い少女、レンからだろう。
「下手な慣れは油断を招く」
「……なるほど」
神妙な顔で楓は頷いた。自分より長く四神を務めてきた――その時の多くは常世に魅入られていたとはいえ――嘉神の言には説得力がある。
楓達は今、街に出現した歪みを封じに向かっている。
様々な世界、様々な時代、様々な次元、空間が混然としたこのMUGEN界。奇跡的なバランスで成立しているこの世界は、故に、不安定だ。
様々な世界の融合がうまくいっていないから、ではない。「残酷なまでに全てを受け入れる」、そう謳った幻想郷と呼ばれる世界の理が働いているのか、それとも他の力が働いているのか、物理法則さえ異なっていたであろう世界同士であっても、ほぼ違和感なく同一の世界となっている。
不安定さの理由は、むしろ違和感なく無数の世界が一つになっているが故のもの。
平穏そのものの世界というのは珍しい。どこの世界にでも争いの種、不穏の種の一つや二つはある。それらが、他の世界の争いの種と相互作用を起こし、時として大きな問題となる。
ただ幸い、というべきか、争いの種はあってもどこの世界でも平穏を望む者の方が多いため、現在はそういった者達が力を合わせてMUGEN界の平穏を守ろうとしている。直接的な争いが極力起きないようなルールや、もめ事の解決手段としてのバトルルールの制定、権力を持った者達は相互に不可侵の誓いを立てる、平穏を乱す者を取り締まるための統合警察機構が作られる――そういった努力が為されている。
しかし不穏の種は直接的な争いだけではない。忌むべき世界――この世界を破滅、崩壊させんとする者達のいる世界――はいつでもMUGEN界の隙をうかがい、チャンスと見るや入り口をこじ開けて浸食しようとする。あるいは、MUGEN界にありつつも世界を破滅させんと邪悪なる存在を招こうとするモノがある。
それらに対抗するのが楓達のような存在だ。
地獄門の封印の監視をはじめとし、現世の秩序を護る「四神」、聖霊関係の事象及び技術研究、災害対策を基本活動にしている「聖霊庁」、法術と武術を組み合わせた技を使う「聖騎士団」や異端を狩る「聖堂教会」、根源への道を求める「魔術協会」等、様々な者達がそれぞれの立場を越えて――それなりに思惑や軋轢はあるものの――手を組み、目に見えぬもの、剣や拳だけでは容易に与し得ない「敵」から「世界」を護るために動いているのである。
今回、楓達が封じに向かっている歪みもまた、「敵」のもたらしたものだ。次元をこじ開け、異なる世界がこのMUGEN界を浸食しようとしている、という報告であった。
既に入り口が開きつつあるとの話に、夜の闇の中急遽向かったのは楓と嘉神、扇奈とレンだ。大きな歪みではないらしいとはいえ、たった四人と見えるかもしれない。だが四神二人に封印の巫女、精神干渉に特化された夢魔、という楓達四人ならばちょっとした歪み程度ならどうとでもできる上に、万が一手に負えない場合でも援軍が来るまでぐらいなら持ちこたえられるはずの戦力であった。
「これか」
目標である『歪み』を視認した嘉神が足を止めた。
その視線の先にあるのは明らかな『異変』。空間そのものが縦に一筋、楓の身の丈と変わらぬほどの大きさに切り裂かれたかのようなそれが、夜闇に包まれた街の朧な明かりに浮かんで見える。徐々に徐々に大きく開き始めている『歪み』の向こうに在るのがどんな世界、空間、次元なのかはわからない。だがそこに在る者の意図は間違いなく――
――この世界の、浸食。
新たにMUGEN界に異世界が融合することは珍しいことではない。だがそれは大きな事件ではあるものの穏やかなる融合であり、新たなる朋友が増える――時としてやっかいごとも増やしてくれるが――喜ばしきことだ。
だが浸食してくるものは違う。この世界の秩序への明確な敵意がそこにある。
――地獄門の向こう、常世と同じ……見過ごすわけにはいかないもの、だ。
楓は愛刀、疾風丸の柄に手を掛けた。世界の秩序を護る四神として、何よりこの世界に息づく者の一人として、この『歪み』は封じねばならない。
「逸るな」
真っ直ぐに『歪み』を見据える嘉神が言う。その碧い目に浮かぶ意志、『歪み』を排除せんとする意志にはどんな感情による揺れもなく、冷徹なまでに冷静に澄んでいた。
「手はず通りだ。忘れるな」
「……わかっている」
一つ息をして、楓は頷く。
対処法は事前に決められている。無理矢理に作られた異世界への口、あるいは扉とでも言うべきものは封じる。妨害するモノは排除する。簡単なことだ。
封印の手段は対する者によって様々だ。聖騎士団なら法術を使い、聖霊庁に所属する聖女達なら聖霊、アルカナの力を借りる。楓達四神は普段はその名の通り四神の力を用いるが、今回は封印の巫女である京堂扇奈の力を使うことになっていた。その呼び名の通り、こと封印にかけては「封印の巫女」達が最も優れている。
「邪魔がなければいいけど……」
『歪み』から感じられる負の気、邪悪なる意志に眉を寄せて楓は呟く。地獄門や魔界孔ではなくこれぐらいの『歪み』の封印ならば封印の巫女の心身にもさしたる負担は掛からないのだが、早く事が済むことに越したことはない。
「……そうはいかないようだ」
轟、と音を立てて嘉神が剣を抜いた。その鞘が炎と化して生んだ一瞬の明かりが、『それ』を浮かび上がらせる。
開く『歪み』から這い出す、異界のモノ達の醜悪な異形そのものの姿を。
「常世のモノに近いモノか。私達が来たのは正解だったな」
何の感慨もなく、嘉神は呟く。だがその碧い目に刹那、なんらかの強い光を見たように楓は思った。
それが本当に嘉神の目に浮かんだものか、自分の願望、あるいは思い込み――かつて地獄門を開こうとした嘉神は贖罪の想いを抱いているのではないか――のせいなのか、楓には判断できなかった。
「邪魔者は私達が片付ける。青龍、貴様は巫女を護り封印の準備を」
「わかった」
楓が頷いたのが合図、あるいはきっかけだったかのように異界のモノ達が動き出す。『歪み』から這い出て、そのいびつな姿形に似合わぬ素早い動きで襲いかかってくる。
「…………」
嘉神の手が、動いた。剣を持つ右手ではない。いつ力を集中していたのか、大きな赤い炎を宿した左手が、空を払う。
「薙げっ!」
嘉神の手から放たれた炎が地を奔り、異形を飲み込まんと襲いかかる。
ちりん……と。
澄んだ鈴の音が、奔る炎の音に、異界のモノ達の呻きにも似た声に重なる。
炎を恐れることなく共に、黒いスカートの裾を翻して疾駆するは、レン。
たん、と地を蹴り、軽やかに跳んだ小さな体が回転する。踊り手のごとく回転しながらレンが放つ銀雪の力が、炎に焼かれる異形の体を次々に打ち据えていく。
異形を喰らった炎が火の粉となって散る中、青白い軌跡を描く銀雪の光。それは本来ならば凄惨と言うべき戦いの場を、幻想的に彩る。
嘉神の炎は続けざまに打ち込まれ、銀雪が討ち洩らした異形を、新たに『歪み』から這い出す異形を食らう。
重さなきかのごとく、ふわりと地に降り立ったレンの銀雪の刃が異形を貫く。
だが異界のモノは一匹や二匹ではない。この世界を浸食するがため、先よりも開いた『歪み』からしぶとく新手が這い出てくる。その中には、先行した者とは異なるタイプの異形が、いた。
「危ない――!」
封印の巫女の力を練り上げ、開放のタイミングを計る扇奈を護る楓は、昏い宙へ飛んだ異界のモノに思わず声を上げた。
長い鉤爪を振りかざすそれら何匹もの異界のモノが狙うは、レンの背。目前の異形を掴み、戯れるように宙へ投げたばかりのレンはあまりにも無防備。楓はそう思い、その異界のモノどもとてそうだっただろう。
しかしどちらも気づいていなかった。
朱雀、嘉神慎之介は既に動いていたことを。
「鳳凰」
赤き炎を纏った嘉神が、レンが投げた異形を焼き尽くしながら宙より舞い降りる。
「…………」
レンが、すっとしゃがんだ。まるでこうなることを知っていたかのように。
そのすぐ側に嘉神は着地する。レンに一瞥をくれることもなく、すぐさま嘉神は地を蹴り――
「天昇!」
その身は再び炎に包まれた。赤き炎は美しく力強い火の鳥を形作り、ほんの一時とはいえこの場の闇を打ち払い、言葉通り天へと昇る。
火の鳥の鋭き嘴が、広げた翼が、避けるすべなど無い異形を悲鳴をあげるいとますら許さず捕らえ、焼き尽くしていく。
ふっと、光が薄れた。
天翔た火の鳥は役目を終えて霧散し、地へと降下する嘉神の白いコートが鮮やかに翻る。
レンがくるりと身を反転させながら立ち上がる。軽やかに踊るように天へと掲げた両の手を、流れるような動きですうと弧を描いて振り下ろす。
「…………!」
次の弾指の間、少女の小さな体を核として無数の氷刃が針山のごとく出現し、空を、そして火の鳥の贄の運命から外れた異界のモノを刺し貫いた。
地に戻った嘉神は再び、いや三度、地を蹴る。役目を終え、砕け散った氷刃がきらきらと舞う中を駆ける。
全く同時に、レンもまた地を蹴った。淡い粉雪のように散る火の粉の中を軽やかに。
嘉神の刃が異形の首を刎ね、続けて振るった腕に宿る炎が別の異形を喰らう。
「不知火っ」
炎に包まれた異界のモノは断末魔を上げることなく幹竹割りに斬り捨てられる。
炎の朱い光の中を青白い光が走った。
「……っ」
レンの操る銀雪の力が優雅に異形を打ち、あるいは無情に貫き、その命を夢と化す。
白と黒、炎と氷、男と少女――あまりにも対照的な二人は共に異界のモノを討ち、互いを護る。
迷いのない剣を、炎を振るう嘉神の碧い目は討つべき異界のモノのみを見据え、踊るかのごとく銀雪を、氷刃を放つレンの赤い目は夢見るように模糊として、異界のモノに僅かも心を向けはしない。
二人の間には一言の言葉もない。碧と赤の視線は重ならない。
だというのに、どこが互いの死角なのか、どこまでが互いの間合いなのか、二人の動きはそれを知り尽くしたもの。
――ああ……
こんな時だというのに楓は感嘆していた。二人の戦う様に、二人の眼差しにあるものに。
それを形容するに楓が思い浮かべた言葉は「信頼」。だがそれだけでは不十分だと嘉神とレンの戦う様に楓は思う。
パートナーだからか、主と使い魔という契約があるからか――理由付けはできそうで、これだという決定打はない。
だからこそ、感嘆することしか楓はできなかった。
もっとも、二人に見惚れる時など今はないということもあったのだが。青龍である楓の役目は眼前の『歪み』を封じる為に力を尽くすこと。
そしてその時――嘉神とレンに討たれ続けて怯んだか、『歪み』から這い出る異界のモノ達が途切れたその一瞬――
「扇奈!」
声を上げると同時に、楓は疾風丸を振り上げた。藍色の髪が弾けるように金の輝きを宿し、藍色の目が緋を帯びる。疾風丸が青龍の蒼雷の力を纏い、溢れる力が空を唸らせる。
「はい、楓さん!」
目を閉じて力を集中していた扇奈が顔を上げる。ふわりとその漆黒の髪が広がり、封印の力が胸の前に合わされた両の手に収束していく。
「幕を引く!」
振り下ろされた疾風丸から放たれた蒼雷が『歪み』へと奔る。阻む異界のモノを打ち倒し、『歪み』を断つ。
「封印します!」
蒼雷の軌跡をなぞるように放たれた扇奈の封印の力が『歪み』を飲み込む。
光と闇が乱舞し、悲鳴とも怨嗟ともつかぬ声が空を震わせ――
静寂が戻ったとき、街の夜はいつも通りのものへと戻っていた。
「……ふぅ、うまくいったようだね」
元の藍色の髪と目に戻った楓が、額の汗を拭う。先程まで感じていた淀んだ空気の感覚はない。
「はい、無事に終わって良かったです♪」
少し疲労の色を浮かべているが、いつも通りのにこやかな顔で扇奈が頷く。
「封印は完璧のようだな。異界のモノの存在のかけらすら残っていない」
剣を鞘に収めて楓達の方ヘレンと共に戻ってくる嘉神は、ねぎらいと称賛の意を言外に含ませていた。
「ありがとうございます。嘉神さんもレンちゃんもお疲れ様でした」
「嘉神、怪我はないかい?」
ちょこんと頭を下げた扇奈に続けて問う楓に返る、即答。
「愚問だ」
――……もうちょっと愛想が良くてもいいんじゃないかなぁ。
楓も嘉神が傷を負ったとは思ってはおらず、念のための確認と気遣いの言葉だったのだが、素っ気ない返答には苦笑が自然に浮かんでしまう。
だが、次に目にした光景に楓の苦笑は変じた。苦笑から、穏やかな笑みに。
傍らのレンに自然と向けられた嘉神の碧い目。言葉にはしないが、彼女の安否をその眼差しは確認している。
「…………」
その意を酌んだのだろう、嘉神を見上げて一つレンは頷いた。やはり模糊とした赤い目――それでいてしかと嘉神を見つめていると楓には思える――に、今は安堵の色が見えた。
――多分、嘉神が無事だったからかな。
そう思う楓は見ていた。レンの視線を受ける嘉神の碧い目に浮かぶやわらかでやさしい色を。雲居隠れた月がちらと顔を覗かせた時の光のようなその色を。
地獄門を開かんとした時の悲痛なまでの絶望と憎悪、狂気に満ちた、しかしそれでも澄んでいた嘉神の目に浮かんだ色とも、普段の泰然自若とした嘉神の目に在る色ともまるで異なったそれは、きっと特別なものなのだろうと楓は思った。
これが嘉神の親友である白虎の直衛示源や、嘉神の師である玄武の翁の言う「慎之介の変化」なのだとも。
――嘉神もあんな顔をするんだなぁ。
微笑ましくも少々の驚きを伴う楓のその思いは、晩冬の寒い日に、春の息吹を感じた時にどこか、似ていた。
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