最期の夢
時は過ぎていく。
流れる川の水を阻むことが誰にもできぬように。
残酷だがあくまでも平等に、自らは終わり無き旅路を行きながら、時は万物を運んでいく。
それぞれの、終わりへと。
過ぎる時の中で朱雀の守護神、嘉神慎之介の髪もすっかり白くなった。その顔には重ねた年を感じさせるしわが刻まれ、体躯も往年と比べて一回り小さくなったようにも見える。
それでも背筋はしゃんと伸び、眼光の鋭さは失われていない。老人と呼ばれる年になり体力などは若い頃よりは落ちてはいるが、技の鋭さは衰えてはいない。朱雀の守護神としての威を嘉神慎之介は今も昔と変わらず備えている。
その嘉神の傍らにあるのは、使い魔であるレン。使い魔であると同時に夢魔であり、人とは異なる理に生きる彼女は、嘉神と出会った頃とまるで変わらぬ姿、十歳ほどの少女の姿のままだ。
だが二人の関係は何も変わっていなかった。
朱雀の守護神としての役割を嘉神は果たし、レンはその傍に在る。
二人は一つ屋根の下で暮らし、時に肩を並べて戦い、時に共にお茶の時間を過ごす。お茶の時間にテーブルの上にあるのは、甘さを控えたケーキと温かな紅茶とミルク。
その日も、そうだった。紅茶はダージリン。ケーキは鮮やかに赤いイチゴが載った白いショートケーキ。
常と変わらず無言で、常と変わらず嬉しそうにケーキを口にするレンを見ながら、常と変わらず嘉神は紅茶のカップを傾ける。
よく晴れた日だった。青い空には雲の欠片一つ無く、風もない。日輪の輝きはやわらかく地を満たし、暑くもなく、寒くもない。出歩くには実に良い日だった。
「レン」
嘉神はカップを置いて、言った。
「私を、喰らわぬか」
まるで、散歩に行こう、そう誘うかのような何気ない口調だった。
常と変わらぬ、いや常よりも優しい響きがその声の中にはあった。その口の端に浮かぶのは、不可解な、だが声の響きと同じく優しい笑み。
「…………」
ケーキを食べる手を止め、レンは嘉神を見た。赤い、夕日色の目に戸惑いの色が揺れる。何を嘉神が言っているのかが把握できない、そんな思いがレンの顔には浮かんでいる。
「私もずいぶん老いたが、朱雀の守護神としての力は衰えてはいない。十分な力がこの身にはある。
お前が使い魔という枷から解き放たれるに十全とは言わぬが、いくらかの足しにはなると思うが」
「…………!」
レンは目を大きく見開いた。ふるり、と夕日色の目が揺れる。
戸惑いが驚きに代わり、怒りが浮かび、悲しみが混じる。
「どうだろうか」
嘉神の表情は変わらない。
眼差しも笑みも、ただただ優しい。だがその奥底に揺らめく、一つの想いにレンが気づいたかどうか。
「レン?」
「………………っ」
がたん、と音を立ててレンは椅子から降りると、ちりんちりんと鈴の音をさせて駆け去った。
残されたのは食べかけのケーキと飲みかけのミルク、紅茶、そして嘉神。
「……やはり、怒るか」
声の響きは、苦い。
人を喰らわない。使い魔であり夢魔、つまり魔の要素をもつレンが己に課した一つの決まり。八百年を遙かに超える彼女の生の中でただの一度もそれは破られたことはない。己の命、存在の危機に面した時でさえ、レンは人を喰らわない。
それはレンの誓いであり、意地であり、誇りとも言えるものであったろう。
レンと長い時を――彼女の重ねてきた年月から比べれば、さしたる時ではないとはいえ――共に過ごしてきた嘉神だ、そのことはよく知っている。
知っていてなお、嘉神はレンにあのように言ったのだ。
どんな反応をするかさえもわかっていながら。
屋敷の庭に面したテラスに、レンはいた。
嘉神の屋敷の庭は、嘉神の操る式神の使用人達にいつもきれいに手入れされている。屋敷の主人の嗜好を反映した、和洋の植物やデザインが入り混じったこの庭には、四季それぞれに花が必ずどこかで咲いている。
この庭でも嘉神とレンは多くの時間を過ごしたものだ。庭を二人で散歩したり、クリスマスに庭の木々を飾り付けて回ったり、四季で一番たくさん花の咲く季節である春には花を眺めながらお茶の時間を楽しんだりもした。
その庭を、ただレンは見つめている。赤い、夕日色の――嘉神がそう形容する色の目で。小さな両の手を、きゅっと拳に握りしめて。
「…………」
人の気配を感じても、レンは動かない。
「レン」
誰よりも大切なその人、嘉神の声が名を呼んでも。
嘉神が、自分の後ろに膝を突く気配を感じても。
「レン」
優しく抱きしめられても。
「……すまなかった。お前の譲れぬものに触れたな」
「…………っ」
レンは、自分の体が震えたのを自覚した。
わかっていて嘉神は先の言葉を口にした。何もかもわかっていて嘉神は言った。
そのことの意味を、夢魔の少女は理解した。
「すまない」
昔とは少し変わった、少し低くなった声が繰り返し詫びの言葉を囁く。
「…………」
レンは自分を後ろから抱きしめる、嘉神の腕を見た。出会った頃と同じ、白いコートの袖に包まれたその腕の抱きしめる優しい力強さは昔と何も変わらない。だがこの腕は、背に触れる嘉神の体は、確かに老いている。
――……慎之介……
レンは手を開き、嘉神の腕に触れた。そっと力をこめ、自分を抱きしめる腕を解かせる。嘉神は無言でレンのするに任せていた。
ゆっくりとレンは振り返る。同じ目の高さに、嘉神の碧い眼。昔と何も変わらない、強い意志の宿るその碧は、昔よりも深みを増したようにレンには見えた。
「…………」
しわの増えた嘉神の顔を、両の手で包むように触れる。あたたかい。肌の下に流れる赤い血液の流れを、レンの指は感じ取る。命の証。
頬に触れた手を、レンは嘉神の首の後ろへと回した。
ぎゅうっと、力をこめて嘉神を、自らの主を、何よりも大切な人を抱きしめる。姿そのままの幼子のように抱きつく。
嘉神は自分に抱きつくレンを包み込むように、抱きしめた。
「すまない」
そう、囁く。これが最後と。
その時以来、嘉神は二度とあのことを口にはしなかった。レンも気にした風を見せることはなかった。
穏やかな時が――たまにちょっとしたアクシデントやもめ事が舞い込んだりするぐらいの――過ぎゆく日々が続いた。
明確にいつ、嘉神が体調を崩したのかは嘉神本人にもわからなかった。
いつの頃からか微熱が続き、頭の重さや体の怠さを感じるようになっていた。
「老いると己が体のことすらわからなくなるものか」
そう言って苦笑する嘉神を、レンはベッドへと押し込んだ。
それで糸が切れたかのように――嘉神がベッドから出ることはほとんどなくなった。診察した医者は「風邪でしょう」と言ったが、風邪にしてはあまりに回復は遅かった。
――仕方がない。
それに不満や不快を感じず、嘉神はただ、そう思った。それは諦めではなく、来るべき時が来ているのだという確信によるものだった。
次第に嘉神はうとうとと眠った状態でいることが多くなり、食もあまり口にしなくなった。それでも目を覚ましている時には意識ははっきりとしており、見舞いに来る四神――玄武と白虎はかなり前に代替わりし、古いつきあいは青龍、楓のみになっていた――を初めとする友人や知人達と談笑するだけの体力、気力はあった。訪ねてきた者達が想像以上に元気だと驚くほどに。
訪ねる者がない時は、嘉神はレンとお茶の時間を過ごすこともあった。ベッドの傍らに用意したテーブルでレンがケーキを食べる様子を優しく見守りながら、レンの淹れた紅茶をゆっくりと口にするのが今の嘉神の楽しみだった。
夜になると、レンは嘉神と同じベッドに眠った。嘉神が倒れる以前と変わらず。ただレンはほんの少し、ベッドに入る時にいくらか遠慮がちに、だがベッドに入ると以前よりも嘉神にくっつきたがるようになっていた。
その夜もそうだった。嘉神のベッドにパジャマに着替えて来たレンは、目を覚ましていた嘉神に小首を傾げて見せる。
それは「【もう一緒に寝ていい?】」という問いかけ。嘉神が眠っている時はそっと布団に潜り込んで眠るのだが、起きているときは必ず問いかける。
「…………」
いつもならすぐに「あぁ」と応える嘉神はしかし、レンをじっと見つめていた。
細められた碧い目にはレンへの想いが優しい光となって宿っている。
すっと嘉神は手をレンへと差し伸ばした。レンのかぶるナイトキャップを取り、青銀の髪に触れる。そっと、慈しむように撫でること、数回。手を止めても、しばし嘉神はレンの髪に触れたままだった。
「……あぁ」
ようやく手を離すと口の端にやわらかな笑みを浮かべて、嘉神は頷いた。
ナイトキャップをかぶり直したレンは嘉神の隣に潜り込む。
「おやすみ、レン」
囁く嘉神に、レンは少し体を起こして顔を寄せた。
「…………」
触れた互いの唇は、あたたかだった。
そして嘉神は、深い深い眠りへと、落ちた。
空の青は、濃い。これは夏の空。その空を朱い光が流れていく。あれは、朱雀の力。
――次代の朱雀は無事受け取ったか。
光の行く末を見届け、嘉神は朱雀の守護神としての最後の役割を終えた。
大きな池のほとりに立つ、嘉神の姿は若い。地獄門の災厄に決着をつけた頃――レンと出会った頃の姿だ。
「……いくか」
空から視線を地へと落とし、嘉神は呟く。自分を励ますかのような響きがそこにはある。
朱雀の守護神としての役割は全て終えた。見られる限り人というものの有り様も見守った。相変わらず人は愚かで醜いが、鏡合わせの賢明さと美しさも併せ持っている。少しずつだが前進もしている。時に後退することがあっても、前へ前へと進もうとする。その姿を見続けられただけで、嘉神は満足だった。人の行く末を見ていこうと思った自分の判断は過ちではないと信じられた。
朱雀の守護神としての心残りはない。朱雀の守護神としては。
苦く、嘉神は口元をゆがめる。その心をよぎるは、一人の少女。ずっと傍らにいた、いてくれた最愛の少女。
「……レン」
その名を呟き、未練だとまた呟く。もう会うことはない。声を聞くことも、触れることも叶わない。
世の理はそれを許さない。
「ゆこう」
嘉神は再び言った。現世での役割は終わった。いかねばならない。未練があったとしても全て抱えていくしかない。それが現世に残した者に最後に嘉神ができる――
ちりんっ
――……!?
聞き間違えるはずのない澄んだ鈴の音に、踏み出しかけた嘉神の足が止まった。
背後から聞こえてくる、駆けてくる足音と共に響く鈴の音に、あり得ない、そう思いながらぎこちなく嘉神は振り返る。その上に、ひらりひらりと白いものが舞い降りてくる。
真白い雪。雲もないのに夏の空から雪が降る。その雪の中を、青銀の髪の、夕日色の目の、黒い服の少女が嘉神の元へと駆けてくる。
「レン……!」
「…………!」
嘉神が少女の、レンの名を呼ぶと同時に、レンは地を蹴り、嘉神の胸元に飛び込んだ。
驚く間もなく、嘉神はしっかりとレンを抱き留める。
「お前、どうして……」
問いかける嘉神を見上げ、レンはふるふると首を振った。ぎゅうっと強く嘉神に抱きつく。その腕の力が、感じるレンの体温、吐息が、少女が確かにここにいるのだと嘉神に教える。
それらが嘉神に全てを理解させた。レンがここにいるわけを、ここに雪が降るわけを。
レンは夢魔だ。人の夢、すなわち意識に介入する力を持っている。二度と目覚めぬ眠りの中に落ちる意識さえも、レンは追うことができるのだろう。だがそれは、レンであっても二度と戻れぬ道のはず。
――それでも、レンはここに、私の元に、来た。
嘉神はレンを抱く腕に力をこめた。こんな道を選ばせてしまったことに罪悪感を覚えはするが、それを上回る喜びがこみ上げてくるのを抑えられない。
「レン……」
こんなにも感情が昂ぶるのは若い姿に戻ったせいだろうかと疑いながら、溢れそうになる想いを込めて愛しい少女の名を嘉神は囁く。
「いこう」
こくん、とレンは頷いた。体の力を抜き、するりと嘉神の腕から抜け出るように地に下りる。
どちらからともなく、手を繋ぐ。
嘉神はレンを見下ろす。レンは嘉神を見上げる。碧と赤の目が互いを映し、二人は微笑んだ。きゅ、と繋いだ手に力をこめたのはどちらだったか。
降る雪が世界を白く染めていく。真夏の空の下に生まれる、真白い世界。
足跡が二つ、白い世界に刻まれる。
白いコートを纏った嘉神のものと、黒いコートを纏ったレンのものと、並んでずっと続いていく。
雪の中を、遙か彼方へ、無情であり平等な時の束縛から解き放たれて。
二人、共に。
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