いつか、その時まで。いつか、その時に。
「認めざるをえんか」
散々抗った後、溜息一つと共に嘉神慎之介は観念した。
「…………?」
その日、レンは見慣れないものを居間のテーブルの上で見つけた。
それは本の傍に置かれた、銀縁の品のよい眼鏡だ。真新しいもののように見える。
本には栞が挟んであった。嘉神が読んでいる途中の本なのだろう。
しかし眼鏡が分からない。嘉神は眼鏡など使っていない。屋敷にはレンと嘉神の他に嘉神が操る式神の使用人達がいるが、彼らも眼鏡などかけていない。
「……」
レンは眼鏡を手に取った。
――……慎之介の……かな?
アクセサリーの一つとして慎之介が身につけることにしたのかもしれない、と思いながらレンは畳んであったつるを広げ顔の近くに持っていってみた。
「…………?」
ぱちぱちとレンは瞬きした。眼鏡の向こうの景色はぼやけて見える。つまりこの眼鏡には度が入っている。
アクセサリーとしてのものなら度は必要ない。しかし度が入っているということは、この眼鏡は実用するためのものだ。
でも、とレンは思う。慎之介の目は悪くない。眼鏡など必要としていない。
――じゃあ、これは誰の?
レンが小首を傾げたとき、ドアが開く音がした。
「あぁ、ここにいたのか。そろそろ茶の時間だが……」
レンに声をかけながら入ってきたのは嘉神だ。
「ん、それは……あぁ、いかんな、色々と出しっぱなしにしていたか」
歩み寄ってきた嘉神はレンが手にした眼鏡に気づくと小さく苦笑を浮かべた。急な来客があったのでな、と言いながらレンから眼鏡を受け取る。
「…………?」
「私のだよ」
レンが問いかけの視線を向ければ、嘉神は眼鏡をかけて見せた。
銀縁の眼鏡は以前から使っていたかのようにしっくりと嘉神の顔に収まる。
「……老眼鏡だ。小さな文字を読むのが最近辛くなってな」
少しだけ間を置いて嘉神は言った。浮かんでいた苦笑が深くなり、「年だな」と続く。
「…………」
レンは思い返していた。最近、本や新聞を読むときに嘉神が前よりも部屋の照明を明るくしていたこと、時々見づらそうに目を細めたり、読むものを目に近づけたり遠ざけたりしていたことを。
以前にはなかったそれは、些細な、しかし確かな変化。
嘉神の両手を取り、軽く一度、二度、レンは引いた。
「うむ」
すぐにレンの意図を察した嘉神は、その場に片膝をつく。レンの意志を酌み、行動するのはもう嘉神の特技のようなものだ。
膝をついた嘉神の両頬にレンは手を添えた。顔を近づけ、じ、と見つめる。
――……いつから、だったの……?
嘉神の目尻や口の端には小さなしわが見え、髪にも白いものが混じっていた。
いつの間にか、本当に、いつの間にか、共に過ごす日々の中で時が確実に嘉神に老いを刻んでいたのだ。ただその変化はあまりにも少しずつだったせいか、嘉神と同じ屋根の下で暮らし、毎日毎日顔を見ていてもレンは意識していなかった。夢魔であり使い魔であるレンには時はその爪痕を印さないということも意識しなかった理由の一つにあるかもしれない。
「……っ」
レンは身を震わせた。
気づいてしまったことが、恐かった。
嘉神が老いていくこと、いつか「その時」が来ることを見てしまったことが、恐かった。
――……いつか、しんのすけは、いなくなる……
「レン」
優しい声に、レンは詰めていた息を吐いた。
優しい声が案じている。そんな顔をしないでくれ、と。
優しい声が慰める。これは自然の理なのだ、と。
だから悲しむな、恐れるな、言葉の代わりにレンの頬に触れた優しく温かい手がそう囁く。
「私はここにいる」
嘉神が微笑んだ。
銀縁の眼鏡をかけた笑みは初めて見るものであったけれど、レンズの向こうの碧い目に宿るレンへの慈しみと愛おしむ想いはいつもと、ずっと前からと同じ。
――……慎之介はここにいる……
嘉神の言葉をレンは繰り返した。その言葉が、嘉神の微笑みが、ぬくもりが、レンの恐れを溶かしていく。
――慎之介……っ
ぎゅ、とレンは嘉神に抱きついた。今目の前にいる嘉神を見失わないように、そのぬくもりをもっと確かに感じるために。
嘉神の腕がレンの背に回される。
「ずっと、傍にいる」
低い声が、レンの耳元で囁いた。
「だから……ずっと、傍にいてくれ」
囁きの中に懇願の響きが混じったのをレンは聞き、そして知った。
――……慎之介も、不安……
嘉神の言う「ずっと」は永遠ではない。「その時」までの限られた時だ。
嘉神は理解している。老いていく自分はいずれレンを残してこの世を去ることを。その時までを望むことが、どれほどに残酷なことかを。
――それでも、望んでくれる。
望んでくれることが、レンには嬉しかった。普段は理をわきまえ、レンを大切にしている嘉神が、それを超えてまで残酷な望みを口にした。それほどに嘉神が自分を想い、求めているのだという実感がレンの心を弾ませる。
抱きしめられたまま、こくりとレンは頷いた。嘉神を抱く腕に力を込める。
――ずっと、いる。ずっと。
その想いを精一杯、その小さな、過ぎゆく時を知ることのない体で示すために。
ややあって腕を解くと、レンは半歩、下がった。
じーっと眼鏡をかけた嘉神を改めて見つめる。
眼鏡の銀は嘉神の目の碧によく合うと、レンは思った。それに目尻や口の端のしわは、嘉神の表情に柔らかさを与えているように見える。
――ちゃんと、伝えるの。
これからも、ずっと、今まで通りに嘉神と過ごしていくために。
嘉神の頬に触れ、レンは笑む。
「【眼鏡、似合ってる。素敵】」
「……そうか」
頷いた嘉神の頬には、僅かに朱が差している。照れた様子は、昔と変わらない。
きっと、これからもずっと。嘉神がどれほど老いようとも。
そんな嘉神が嬉しく、愛おしく――『大好き』で、レンは嘉神の頬にキスをした。
この日、レンは密やかに一つを誓った。
――ずっと、いっしょ。それが貴方とわたしの約束。
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