雨に紫陽花は鮮やかに

 六月は梅雨の時期である。
 梅雨であるから天気の悪い日が多い。今日も、雨である。
 午前中は曇ってはいたもののどうにか降らずにいたが、昼を過ぎるととうとう降り出した。
――やはり降り出したか。
 天を仰いで嘉神は一つ息をつき、持っていた鞄から折りたたみ傘を取り出した。
 小さく折りたたんで持ち運べるこの傘は便利なものだ。少々強度に難はあるが、携帯性を重視しているのだから仕方がない。
――こういったものがあるのも、技術の進歩というものだな。
 黒い傘を開きながら嘉神は思う。嘉神が「在った」世界の百年あまり後の時代の技術レベルがこのMUGEN界での標準らしい。その為、嘉神はこの世界には色々と便利なものがある、としばしば感じる。もっともその便利さ全てが肯定すべきものだとは思わないのだが。
――便利の名の下に、失われるものもある。それを私は忘れてはならん……
 そう思う嘉神の眉は不快げに眉を寄せられている。だがそれは「便利」への疑念によるものではない。。
――技術は進歩していくというのに、月の名を合わせることはできんのか。
「水無月に雨などと……」
 歩きながら、傘の下から嘉神は雨雲に覆われた天を見上げた。
 かつて日本で公的に使われていた太陰暦は、維新の後に「様々な事情」により太陽暦に変更された。その経緯も事情も嘉神は理解はしている。だが、太陽暦に変更した後の月に、太陰暦そのままの名前を当てはめているのは気にくわない。
 おかげで「水無月」に梅雨があるという、全くもっておかしなことが起きてしまっている。水無月は太陽暦に当てはめるならば七月辺りなのだ。水無月だけではなく「六月」に使われる様々な異名の多くは太陽暦の六月の有り様と異なっている。もちろんそれは六月に限った話ではないのだが。
――美学に欠ける。誰か意見を言う者はいなかったのか。
 当時の為政者達の判断力や想像力の欠如への不満を心中で並べ立てながら、嘉神は足早に街を行く。
――……いかんな。
 しばらく歩き、嘉神は軽く首を振った。過去の――この世界の時間軸的には――為政者の所業にあれこれ文句をつけても意味はない。これは自分が少々苛立っているせいだと嘉神は自分の感情を分析する。
 やれやれ、と嘉神は苦笑した。
 苛立つということはつまり気分が急いているということだ。
 急くということはつまり、嘉神が早く屋敷に帰りたいと思っているということである。
 他者と関わることを嫌っているわけではないが、賑やかに過ごすよりも落ち着いた時間を過ごすことを嘉神は好む。そういう意味で早く屋敷に戻ってくつろぎたいという気持ちはある。だがそれよりも強く、嘉神が屋敷に早く戻ることを望む理由がある。
 今日は屋敷で留守番している、夢魔であり嘉神の使い魔である少女、レンと交わした約束。
 レンと共に出かけることはしばしばあるが、今日は四神の一人、朱雀としての所用であるため、嘉神は一人で外出していた。
 午後のお茶の時間には戻るとレンには約束してある。しかし少々用を片付けるのに手間取った。急げば時間に間に合うが、そこにこの雨である。
――……約束を気にして、苛立つか……
 他愛のない、ささやかな約束だ。理由はちゃんとあるのだから、遅れてもレンはそうは怒るまい。
 そうわかっていても嘉神は先よりも一層早足に雨降る街を進んでいる。
 レンの待つ我が家に、約束の時間までに戻れるように。
「……フ」
 もう一度だけ、嘉神は小さく苦笑した。


――雨……止みそうにないな……
 窓枠に肘を突いて外を眺め、はぁ、とレンは溜息をついた。
 カーテンを開けた窓の向こうにあるのは、しとしとと雨が降る庭の光景。そこでは雨を受けて生き生きとした庭の木々や花々が、雲によって日の光を閉ざされた薄暗い中でもその緑を、花の色を鮮やかにさせている。
 雨の降る庭の一隅には花開き始めたあじさいの群れが見える。今はまだ色づき始めなので白っぽい色のものが多いが、雨に濡れ、時が経つにつれて赤や青を帯びていく、らしい。
 らしいというのは、嘉神からそう説明されただけで、レンは今までそこまで注意してあじさいの色の変化を見たことがないからだ。
――今年は見てみようかな……慎之介と、一緒に。
 雨に濡れ、水滴がいくつもいくつも窓ガラスを流れ落ちていく。それを部屋の中から指で辿りながら、ぼんやりとレンは思う。
 雨は一向に降り止む様子はない。激しくなる気配もないが、その分長い雨になりそうだ。
 朝から雲行きは怪しく、また天気予報でも昼から雨だと言っていたから、嘉神は出かけるときに折りたたみ傘を持っていった。だから濡れることはないだろう。
 午後のお茶の時間――三時にはもどると嘉神はレンに告げて屋敷を出た。
 レンは後ろを振り返った。棚に置かれた置き時計の示す時間は二時半だ。約束の時間まであと三十分もある。
 また一つ小さく溜息をついてレンは窓へと視線を戻す。雨に濡れた窓から見える外の景色はぼやけている。しとしとと降る雨の音がガラス窓を通して聞こえてくる。
――……寝ていようかな……
 そう思っても今日は不思議と眠くない。猫の性か、雨の日は眠くなることが多いレンであるが、今日は睡魔はどこかに遊びに行ってしまったらしい。
 屋敷の探検、テレビを観る、本を読む、音楽を聴く、ぼんやりとしている……嘉神が戻ってくるまでの時間の過ごし方を色々と考えてみるが、今日はどれも気乗りがしない。
 レン以外に人の気配のない室内に響くのは雨音ぐらいだ。その雨音が却って静かさを、嘉神がいないのだと言うことをレンに感じさせる。
――早く帰ってこないかな……
 窓の外を睨んでも、嘉神の姿はまだ見えない。見えるのは雨と、庭の草木――白い紫陽花だけだ。
――……そうだ。
 レンは座っていた椅子から滑り降りた。早足に部屋を出ていく。
 廊下を行き、階段を下りて向かうのは玄関ホール。
 階段下の倉庫の扉を開き、レンはそこに設置された靴箱から真新しい黒いレインブーツを、傘立てからこちらも新しい白い雨傘を取り出した。
 少し前に街に行ったとき、「もうじき梅雨だから」と嘉神が買ってくれたのだ。レインブーツはレンの服装に合わせて黒を選んだが、傘は白が良いとレンが望んだ。
――慎之介、わたしが白がいいって言ったわけ、気づいたかな。
 レインブーツに履き替えながらレンは思う。
 嘉神の傘は黒だ。嘉神が選ぶものだからこしらえの良いもの――もちろん、レンの傘もだ――ではあるが色は男性がよく使う黒だ。そこで無駄に奇抜な色を選ぶような嘉神ではないから意識して黒を選んだわけではないだろう。それでも、嘉神が黒い傘を使うから、レンは白い傘を選んだのだ。
 あの時「白なら暗くても目につくな」などと呟いていた嘉神がレンの意図に気づいたはずはないのだろうけれど。
――……慎之介だものね。
 苦笑の色をちらりと夕日色の目に浮かべつつ靴を履き替えたレンは倉庫の扉を閉め、玄関のドアへと向かった。白い傘をステッキのようにコツコツとつき、新しいレインブーツがカツカツと靴音を立てる。それらの音がレンの耳には心地よく響いた。
 ガチャリとノブを回し、ドアを小さく開く。雨音がはっきりと聞こえ、水気を含んだ少しひんやりとした空気がレンの頬を撫でる。
 開いたドアの隙間からするりと外へ出ると、レンは白い傘を開いた。可愛らしく丸みを帯びた白い傘は、まだ色づかない紫陽花を少しだけ思い起こさせた。
 傘を差し、レンは庭へと出る。雨の雫が軽やかに傘を叩き、不規則な、しかし楽しげなリズムを刻む。
 そのリズムに合わせるような足取りでレンは濡れた草木の間を行く。
 目指すは、白い紫陽花の元。


 雨に濡れた紫陽花は葉の緑も花の白も、近づくと一層鮮やかに見える。
 紫陽花は小さな花がいくつもいくつも寄り添い、一つの花を為す。よく見れば小さな花はあちこちでほのかに青みを帯び始めていた。
 きれいだ、と自然に思う。


 紫陽花から嘉神はレンへと――嘉神の目線からでは白い傘にほとんど隠されてしまっている小さな姿へと――視線を移した。
「今日のような日に庭に出るとは、珍しいな」
 声をかければ、白い傘ごとレンはくるりと振り向いた。白い傘の下に、黒い服の少女の姿が鮮やかに現れる。
「…………」
「今戻った」
 夕日色の目だけに喜びの感情を表して見上げるレンに、嘉神は頷いて見せた。
 おかえりなさい、そう言う代わりにレンはこくこくと頷いてみせる。そのたびに、雨音の中にちりんちりんと鈴の音が響いた。
「紫陽花を見ていたのか」
 嘉神が問えば、こくりとレンは頷く。
――ずいぶん長いこと眺めていたようだな……
 いつもはさらりとしているレンの青銀の髪が、少し重たげにその額に張り付いているのを見て取り、嘉神はそう思う。傘を差していたのだから濡れはしていないが、長く外にいる内に湿気を含んでしまったのだろう。
「紫陽花を見るのは楽しかったか?」
 またこくりと、レンは頷いた。
「そうか。だがそろそろ屋敷に戻ろう。体も冷えただろう」
「…………」
 じ、とレンは嘉神を見上げる。
 もう少し紫陽花を見ていたいのか、と嘉神は思う。丁寧に世話をしてきた――主な作業は式神の園丁に任せてあるとはいえ、嘉神も折りを見ては庭の手入れをしている――花をこうも気に入ってもらえるのは悪い気分ではないが、雨の降る中ずっと見続けるのはどうかとも思う。
「レン、花を見ていたいならいくつか切って……」
 言いかけた嘉神の言葉を遮るようにふるふるとレンは首を振った。
 と、すうっと下がった白い傘が一瞬、嘉神の視界からレンの姿を隠す。
――レン?
 嘉神が訝しく思っている間に白い傘がしぼむ。畳んだのだ、と嘉神が理解したときには、もうレンは嘉神の傘の下にいた。
「…………」
 嘉神の鞄を持った方の手に自分の手を重ね、レンは嘉神を見上げる。
「……この傘は二人で入るには小さいのだがな」
 普通の傘なら大丈夫だが、今嘉神が差しているのは折りたたみ傘だ。いくらレンが小さいと言っても二人で入るには少々狭い。
 レンは嘉神の腕に自分の腕を絡め、ぎゅっ、とくっついた。絡めていると言うより、嘉神の腕に片手で抱きつくような状態だが身長差故に致し方ないところである。
――少々くっついたところで……
 嘉神は傘を見上げる。レンがくっついても、やはり少し小さい。元より二人には大きな身長差があるのだから、嘉神に合わせた高さで傘を差していると、レンの頭の高さの辺りは濡れやすくなる。今日は風は吹いていないが、歩き出せば多少雨は降り込んでくる。
「…………」
 レンはじぃっと嘉神を見上げている。どうやら嘉神の傘から出る気はないらしい。
――仕方あるまい。
 嘉神は早々に諦めた。ここから玄関まではそう遠くはない。ここで問答しているより、さっさと歩き出した方がレンを濡らさずにすむだろう。
――それに……
「レン」
 レンに声をかけ、嘉神は掴まれている腕を軽く動かす。きょとんとした様子ながらも、案外素直にレンは嘉神の手を離した。傘の下から追い出される心配はないという安心、信頼が故だろう。
――……信頼されるのは悪くはないが……
 何とはなしに落ち着かないような、面映ゆいような感覚を伴うのはいかがなものかと思いながら――そんな感覚が来る理由が自分でわかっているだけにどうしようもない――嘉神は自分のコートの中にレンを抱き寄せる。
 ちりん、と鈴の音が響いた。
「……これでいくらかましになろう。既に少々湿っているが少しの距離だ、我慢してくれ」
 レンはそんなこと構わないとばかりに今度は嘉神の体に抱きついてくる。もっとも、自分が手にした濡れた白い傘が嘉神に触れないようにレンなりに一生懸命気を使ってもいたが。
 もう湿っているのだから、それほど気を使わなくてもいいのだが、とも思うが、レンの気遣いを無駄にすまいと嘉神はそれは口にはしなかった。
 その代わり、行こうと嘉神はレンを促す。
「戻ったらお茶にしよう」
 レンの歩調に合わせ、少しゆっくりと嘉神は歩く。
「お前も体が冷えただろうから温かいミルクティーを入れよう。
 少しスパイス……そうだな、クローブを入れようか。何、ほんの少しだ。その方が体も温まる。
 それに今日のレモンパイにはスパイスのきいたミルクティーの方が良く合う」
 嘉神を見上げ、その言葉にこくと頷きを返し、時に顔を僅かにしかめつつもすぐに嬉しそうな表情を見せ、レンも歩く。
 しっかりと嘉神に抱きついて。
 嘉神は静かな落ち着いた時間を過ごすことを好むから、戻っても屋敷はきっと静かだろう。でもその静けさはきっと、心地よいもののはずだ。
 その確信を胸に、レンは嘉神と共に屋敷のドアをくぐった。

 残された紫陽花の花々は変わらず雨に濡れ、雲に覆われた天の代わりのように、青をその身に現している。
 だが大きな花を形成する小さな花々の片隅の幾つかは、ほんのりと赤を宿し始めていた。
 レンと嘉神、二人のあたたかな心の色が、宿ったかのように。
 

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