やさしいうた〜朱雀の唄〜

 ふと、嘉神の左腕にかかる重みが増した。
「……レン?」
 嘉神は読んでいた本から視線をあげ、重みの主であろう人物に声をかける。
「…………」
 返ってくるのは無言。だがそれはいつもの意志ある無言ではない。
 見れば、レンは嘉神にもたれてすやすやと眠っていた。
――……ふむ。
 嘉神はぱたりと本を閉じる。
 午後のお茶の時間も終わり、薪の火のはぜる暖炉の前でのくつろぎの一時。眠くなるのも仕方がないだろう。
 しかしこの状態では寝苦しいのではないだろうか、少なくとも心地よくはないだろうと嘉神は考える。レンを起こさないように注意を払って嘉神はまずは左腕を、レンの体の下から抜いた。
「……む……っ」
 支えを失い、ずるずるとくずおれていくレンの上体を、危ういところで嘉神は抱き留めた。幸いにもレンは起きていない。そのまま慎重に、ひとまずレンの頭を自分の膝の上に置く。少々変則ではあるが、膝枕の状態だ。
――まあ、これでもよいか……
 これなら先程よりは寝心地は悪くないだろう、それにこれ以上下手に動かして起こしてしまうのもかわいそうだ、今しばらくはこうして寝かせておいてやろう――そう思った嘉神は、レンの上に脱いでいた自分のコートを掛けてやると再び本へと手を伸ばす。
「…………」
 レンがもぞもぞと身じろいだ。
 起こしてしまったかと嘉神は動きを止める。
 レンはころりと嘉神の方に体を向け、きゅっとコートを握って少し体を丸めた。それだけで、目を覚ましはしない。
 と、さらりと流れた青銀の髪が、レンの頬にかかった。
――……む。
 少しためらったが、指の先でまた慎重に嘉神は髪をレンの頬から後ろへと流してやった。
 レンの髪は癖もなく、さわり心地がいい。
 嘉神の手がレンの髪から離れる。だが迷うようにその手は宙に浮いたままだ。
 触れるべきか、どうか――そんな逡巡は存外、短かった。
 すう、と嘉神の手は再びレンの髪に、それから頭に触れる。
――寝癖がついては、な……
 言い訳だと自覚しつつもレンの髪に今少し触れていたいという衝動を抑えきれず、その言葉を盾にしてそっと嘉神はレンの髪を撫でた。それでも建前の理由を守ろうと、眠るレンの髪を整えようともしているのは嘉神の律儀さ故か。
 レンはよほど深く眠っているのか、起きる様子はない。身じろぎ一つもしない。あどけない寝顔は、起きているときよりもずっと、姿そのままの少女のもの。
――……どちらも、レンだ。
 あどけない寝顔も、普段の感情を抑えた顔も、折々に見せる様々な顔も、猫の姿も、皆、レンのものだ。
――皆、私は……
 レンの髪を撫でる嘉神の手が、止まる。口元には苦笑。眼差しは優しい。
 髪に触れていた手を、緩やかな呼吸に上下するレンの背へと置く。
 そして嘉神は―――


 眠りの波に意識をたゆたわせ、レンは夢を見る。
 明確な形などない。ただ、あたたかい夢。大好きなぬくもりを感じることで生まれる幸せな夢。
 自分がこんな幸せな夢にあることを慎之介は気づくことがあるだろうか、と夢の中でレンは思う。
 きっと嘉神は気づくことはないだろう。気づかないまま、不自然な体勢では寝苦しいだろうとか、ちゃんとベッドで眠らなければ駄目だなどと考えて、最後にはレンをベッドに運んでしまうのだ。
 嘉神のそばで眠るのが、レンには一番心地いいというのに。
――困った人……
 それでもそれが嘉神であるのだし、そんな慎之介がレンには愛しい。
 薄く微笑んで、レンはぬくもりが離れるまでの幸せな夢にまた沈んでいこうとした。
 が。
――…………?
 感じた「それ」にレンはほんの少し意識を浮上させる。
 ぬくもりの波、幸せな波。ゆらゆらと揺れる波に、新たな波が一つ、増えている。
――この波は……うた……?
 緩やかで優しい、低い声が生み出す波。新たに加わっても他の波を乱さず、むしろ心地よさは増す。
――やさしいうた……優しい声……慎之介の、声……
 嘉神が歌っている。素朴でやわらかな響きのこれはきっと、子守唄。
 何故嘉神が歌っているのかはレンにはわからない。嘉神には珍しい気まぐれなのだろうか。
 わかるのはただ、この唄が心地よいことだけ。
――慎之介……
 嘉神がどんな顔で歌っているのか見たいと好奇心が首をもたげてくるが、レンは今回は諦めることにした。それよりも今は、心地よいぬくもりと唄の波の中で眠っていたい。
 その代わり、いつか嘉神の夢にこの唄を届けようとレンは思う。きっと嘉神は驚くだろう。けれど、きっと最後には笑んでくれるに違いない。
 そんなことを考えながら、レンは自らの意識を眠りへと手放した。
 今日のこの幸せな夢は、目覚めるときまで続くという確信と共に。
 

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