碧い眼

 嘉神は机に向かって地獄門の封を護る朱雀の守護神としての仕事を片付けている。
 昼まではいつもこうなのだから仕方がないと、レンは窓辺の椅子に腰掛けて外を眺めていた。構って欲しい、遊んで欲しいと思いはするが、仕事の邪魔は嘉神は許してくれない。一度本気で叱られてから、さすがのレンもこの時間はおとなしくしている。
 もっとも、十時のお茶の時間だけはレンは死守したし嘉神も許してくれているのだが――
 時計の針が今示すのは九時半。お茶の時間にはまだ三十分もある。
「…………」
 おとなしく、レンは待つ。
 それにレンはここでこうして待っていることも好きだ。日当たりの良いこの場所でのんびりするのは心地良い。昼寝するにはもってこいの場所でもある。
 今日は天気が良い。青い空には雲一つ無い。空は日々その青を濃くし、夏の近づきを告げている。夏になると昼間外に出かけるのは辛くなるが、今はまだ良い季節だ。少し開いた窓から流れ込む爽やかな風がレンの頬をくすぐる。
 午後は慎之介と一緒に散歩に行くのも良い、と思いつつもお茶の時間が気になって、レンは時々振り返っては時計を確認する。
「……?」
 と、何か紙がひらりと嘉神の向かう机から落ちたのが見えた。嘉神は気づいていないらしく書類に目を通している。
 ちょっとした好奇心から、レンは椅子から降りてその紙を拾いに行った。
「………………?」
 落ちていた紙は古びた和紙だった。人の姿――年の頃は志貴と同じぐらいの白い洋装に身を包んだ栗色の髪の少年の姿が描かれている。素朴な筆致だが、なかなかにうまい。
――……慎之介?
 黙々と仕事を続けている嘉神にちらっとレンは視線を向ける。描かれた少年は当然のことながら今の嘉神よりずいぶん若いが、髪の色も顔立ちはよく似ている。特徴的な額のほくろもある。おそらく嘉神で間違いはないだろう。
――でも……
 しげしげと絵を眺めてレンは小首を傾げた。レンから見て、この絵には何か違和感があるのだ。
 それがなんだろうとレンは考え、また嘉神に目を向けると、その嘉神と視線が重なった。
「どうした?」
「…………」
 問う嘉神に持っていた絵を見せると、途端に嘉神は少し困った様子で苦笑を浮かべた。
「それか……その辺の本の間に挟まっていたか」
 立ち上がってレンに歩み寄った嘉神は、膝を突いて絵を覗き込む。
「…………?」
「私が朱雀の守護神となったときに、師匠の玄武の翁が描いたものだ。記念だとか言ってな」
 苦笑を残しつつも、絵に向けた嘉神の細められた眼には懐旧の念が宿っている。
 その眼差しに、レンは自分の感じた違和感がなんであるかに気づいた。
――…………
「ん?」
 じっと自分の顔を見つめるレンに、なんだ、と問いかけた嘉神に、レンは絵の嘉神の目を指さして見せた。
 絵の嘉神の目は、少し茶のかかった黒。
 そして、嘉神の頬に触れる。
 無言でレンの指を追う嘉神の目の色は今日の空の色にも似た碧。その碧に、理解の色が重なる。
「昔は、この色だったのだよ」
 そう言った嘉神の表情にほんの僅か、陰りが差す。その陰以上に昏く濃いものが嘉神の胸によぎったのが、レンにはわかった。
 先より細められた眼。懐旧の色は既に無く、碧には冷ややかな光が宿る。
 それらがレンに教えるのだ。嘉神が自らの感情を抑え込んだことを。
 レンの前で、嘉神は右の手を開く。
「常世の力を得たときに今の色になった」
 嘉神の手に青い炎が踊る。常世から解放されても、未だ嘉神に宿る常世の力。以前のように心を奪われることはなく、嘉神の意志で使えるようになった力ではあるが、嘉神が決して常世の力、青い炎を好んではいないことをレンは知っている。
 嘉神が常世と敵対する朱雀の守護神であるからだけではない。
 青い炎は嘉神が過去に犯した過ち、罪の象徴であるが故。
「同じ色だろう?」
 いっそ静かに、嘉神の声が響いた。
 嘉神と通り一遍の関わりしかない者ならそのまま何も気づかないだろう。
 しかしレンのように嘉神と深く親しく関わる者にはわかるのだ。
 この静かな声が嘉神の強さ、その誇り――嘉神の好む言葉で言うなら「美学」と言うべきか――によるということが。
 嘉神が何かを隠そうとしていること、それが嘉神の弱さであることが。
「…………」
 レンは嘉神の青い炎を宿した手に、自分の手を重ねた。
「っ、レン……っ」
 危ういところで炎を消す嘉神をよそに、何事もなかったかのようにレンはその手を握る。
「危ないではないか……」
 レンが火傷を負った様子のないことにほっと息をつく嘉神の手を取ったまま、レンは立ち上がった。
「レン……?」
 困惑の声は無視し、レンは嘉神の手を引いて窓へと向かう。
「…………」
 すっ、とレンは窓の外を指さした。日輪輝く、青い青い空を。
「空……空の色だと、言うのか?」
 更に困惑を深める嘉神に頷いて見せ、くい、とレンはその手を強く引いた。困惑しつつも意図を察した嘉神はその場に片膝をつく。
「………………」

 嘉神の目元に、優しい、しかし思いを込めたキス。

「……レン……」
 うっすらと頬に朱を宿す嘉神は、苦笑を浮かべていた。
 もう表情に陰りはなく、声も普段通りだ。
「お前は、本当に……」
「…………?」
 言いかけて止められた嘉神の言葉の先を促すように、ねだるように、レンは小首を傾げる。
 嘉神の碧い目を捕らえて放さずに。
 こうしていれば嘉神が根負けするのを、レンは知っているから。
 そして、嘉神もレンに知られていることを、知っている――
 

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