誕生日ログ

祈りと、願いと、生まれる希望

「――まずい――」

 そう呟いたのは誰だったか。
 己だったやもしれず、他の四人のいずれだったやもしれず――あるいは、皆だったかもしれない。
 覚えている――はっきりと――ぼんやりと――のは、誰よりも早く動いたのは、己だったこと。

 炎が、走った。
 万物を焼き尽くし、灰燼と化す鮮烈なる朱は、新たなる再生のための、《始》。

「――!?」

 誰かが名を叫んだ。そのはずだった。
 唸る炎、渦巻く――邪気。そう、あれは、邪気だ。
 人の心から生じる、負の想念。人を悪へと導き、堕とし、世の理を狂わせる忌むべきもの。

――忌まわしきもの、世の理を乱すものなど、それを生み出すものもろとも、滅び去るがいい。

《私は、まだ全てを見ていない》

――今ここにあるものが全てだ。

《それが真か確かめていない》

――……こんなもの、在ることすら、許し難い……!

《これもまた、一つの理》

――消えてしまえ、滅び去れ、何もかも……!

《私は、何もかもを見ねば――灰となれ、塵となれ、穢れし人間……!!!

 朱に、蒼が混じる。
 万物を焼き尽くし、灰燼と化す凄烈なる蒼は、新たな創造のための、《終》。

 ちりん、と。

 朱と蒼が乱舞する中、鈴が鳴ったのを聞いた。



「すべて、けしされば、いい」
 そう呟いたのが自分であることに気づいたのは、その声が耳に届いたとき。
――む……?
 小さな違和感を感じ、首を捻る。しかし違和感の正体が掴めず、瞬きを一つ、二つ。
 そして彼は自分がいる場が見知らぬ場所であることを視認した。
 そこは、闇であった。
 外であるのか、それとも何らかの――例えば建造物、もしくは地下など――内であるのかすらわからない。
 ただ奇妙なことに、彼の姿は闇の色に飲まれることなく、在った。
「……」
 ぐるりと周囲を見回し、闇に飲まれることなく在るものが自分だけではないことを彼は知った。
 長方形の鏡。
 いくつあるのかはわからない。あるものは地に立ち、あるものは宙に浮かんでいる。
 近くの鏡に自分が映っていることに彼は気づいた。
――闇の中で姿が映るのか……
 奇妙だと思いながらも鏡に映る自分を見た彼は、眉を寄せていた。
 纏うのは白い洋装。
 髪は茶で、眼の色は碧。額のほくろが特徴的だ。
 年は――七つか、八つ。十には未だ至らないだろう。
 そんな子供の姿が鏡に映っている。
「誰だ、これは」
 困惑に呟いた彼は先の違和感の正体を知った。この声が己のものだという感覚が薄い。わからない。己のものではない、という確信まではないものの己のものだと断定するには迷いが出る。
 わからないのは声だけではなく。
「……私は……誰だ……?」
 鏡に映る子供の姿やこの口から出る声のみならず彼は自分が何者なのか全くわからない、思い出せないことを認識した。
 わかるのは、ただ。

「全て、消し去れば、いい」

 こんこんと胸の内からわき上がる怒り、嘆き、憎悪――それらが一つとなった絶望からこぼれ落ちた、その言葉。
 醜く愚かな人間など、それが在る世界もろともに消し去ってしまえばいい。
 そのためならば師を僻地へと追いやることも、友を裏切り封じることも、同胞を手にかけることも、いかなる罪を犯すことも厭うまい。
 ぼう、と鏡に映った幼子の左の手、即ち彼自身の左手に蒼い炎が宿ったのを彼は見た。
 ああ、と得心する。この炎が望みを叶えてくれると。全て――人間も、世界も、彼自身も、全て消し去ってくれるのだと。

「消し去ればいい」

 繰り返せば、応じるが如く炎は大きくなる。
 万物を焼き尽くし、灰燼と化す凄烈な、蒼。再生などない。新たな創造など嘘だ。この蒼がもたらすのは、滅びのみ。

《それは、ならん》

 誰かの、知っている声を彼は聞いた。
 同時に気づく。
 鏡に映る幼子の後ろにいつの間にか現れた白い姿を。
 白い洋装、茶の髪、額のほくろ、碧の眼。幼子がそのまま成長したような、男。
 異なるのはその左の手に宿すのは朱の炎であること。

《それは、ならん》

 鏡の中の男は繰り返し、炎を宿した手を前へと――彼へと、伸ばす。
 ああ、と得心する。この男は己を許さないと。あの朱の炎は、正しき理は、己を許すことはないのだと。
 今は。
 いつまで続くかわからないが、今は決して、許さない。認めない。
 故に朱の炎は己を――

「【だめ】」

 銀の鈴を振る様な美しい声は心に、魂に響いた。
《――っ》
 男の声がした。何故か慌てたような焦ったような響きに彼は僅かに困惑する。
 こんな風に男の心を揺らめかすものが、在るのか。
 いつの間に、そんなものを男は手に入れたのか。
 そんな戸惑いのせいで、彼は気づくのに、遅れた。

「【行こう】」

 纏うのは黒い洋装。
 さらりと長い青銀の髪を飾るのは、蝶の形に結わえられた黒い布。
 雪のように白い肌。眼の鮮やかな赤は――夕日を思い出させた。
 年の頃は十ぐらいか。
 いつ、どこから現れたのか、そんな少女が彼に手を差し伸べていた。

「【だいじょうぶ】」

 ふわりとやわらかく、愛しげに少女は微笑みかける。
――なぜ……?
 少女は己にそんな笑みを向けるのか、手を差し伸べるのか。
 男のように己を許さぬためではない。この手は、彼をいずこかへ導く手だ。

「【いっしょに、見に行こう】」

 躊躇うことなく少女は彼の左の手、蒼い炎を宿した手を取った。
「……っ」
 手を引く暇もあらばこそ――手を引こうと、少女を傷つけるまいと思ったことに気づく暇すらなく――だが、蒼の炎は少女の手を焼くことはなかった。どころか少女の手が彼の手に触れる直前、炎は消え失せていたのだ。
――どういう、ことだ……

「【――はわたしを傷つけたりなんかしない】」

 彼の手を包み込んだ少女の手は、とても、あたたかで。
 瞬間、鏡が、闇が、砕け散る。

 無数の鈴が鳴り響くのにも似た音がする中、男が溜息をついたのを彼は聞いたように思った。

     §     §     §

 少女は彼の手を取り、歩む。
 どこへ行くのか、と彼は問うた。
「【いろんなところ】」と少女は答えた。
 何をするのか、と彼は問うた。
「【いろんなものを見るの】」と少女は答えた。

 きれいなものも、きれいじゃないものも、うれしいものも、うれしくないものも、よいことも、よくないものも。

「【たくさん、いっしょに見るの】」と少女は言った。
 彼の手を決して離すことはなく。

 ある剣士を見た。
 何ら省みることなく、ただ己の剣の腕を高めることだけを追い、二百を優に超える強者を倒した修羅の如き剣士だった。
 だが、年を重ねていく内に剣士は穏やかさをその身に備えていった。
 いつしか剣を手放し、代わりに釣り竿を手にした剣士は幾人かの弟子を育て、導くようになった――

 ある子供達と男を見た。
 理由は様々だがいずれも親を失い、見捨てられた子供達だった。そのままでは野垂れ死ぬしかなかった。
 だが、あの男が子供達を自分の子とした。
 出自も、肌の色や髪の色も異なる子供達を男は育て、子供達は男を父と、そして師と慕うようになった――

 ある男を見た。
 友に裏切られ、その身を十年封じられた男は、解放されたときには憎悪の狂気に飲まれていた。
 だが、娘を、十年生き別れた娘を前にしたとき、男は正気を取り戻した。
 狂乱に荒れ狂う父を前に、泣きながら一歩も引かなかった娘を、打ち砕く代わりに男は抱きしめた――

 ある少年を見た。
 父と、師と慕った男を殺され、誤解に歪んだ復讐の旅に在る少年だった。
 だが旅の果てに真実を知った少年は、討つべき正しい仇を前に、できないと言った。
 かけがえのない存在を殺した仇敵にとどめを刺せる、まさにその時に、金の、藍の髪の少年は泣きそうな顔でできないと言った――

 様々な人間を、人間でないものを見た。
 美しいものも、醜いものも、喜びも、悲しみも、善も、悪も、無数に、彼は見た。
 先に立って彼の手を引く少女と共に。

 そして、彼はある男を見た。
 人間の醜さ、弱さ、邪悪さだけを見てしまった男は激怒し、慟哭し、絶望した。
 絶望のまま男は全てを消し去ろうとし――だが、果たせなかった。
 己が野望を果たせなかった男は自らを消し去ろうとし――だが、許されなかった。
 故に男は、己が許されなかった――生かされた――理由を求めた。求め、探し、様々なものを見た。見続けた。

 今も男は、己が生かされた世界を、人間を見続けている。

「【いっしょに、見るの】」

 少女が彼を振り返って、言う。やはりその手を離すことなく。
 夕日の色の眼に彼を討つし、だから、と少女の唇が動いた。

「【帰ろう、――】」

 己の手を握る、あたたかな白い手を彼は見た。
 このぬくもりがあるならば少女の言う通り、人間を、それが息づく世界を見続けていくのも悪くないかもしれない――そんなことが脳裏に浮かび、何故か、誰かの溜め息を聞いたように思う。
 胸の奥からわき上がる憎悪は消えることはないかもしれない。だが、それでも――

――もう少し見ているのも、悪くない。

 だから。
 彼はこくりと頷いた――

     §     §     §

 うっすらと開いた視界に映ったのは、天井。見覚えのある天井が自室のそれで、己が寝台に横になっていることを認識したところで嘉神は小さく息を吐いた。
――戻れた、ようだな……
 まだ霞がかかったような意識の中でそう思うと、半ば機械的に嘉神は体を起こし――次の瞬間には再び寝台の上に横たわっていた。否、押し倒されていた。
「……な……?」
 何が起きたのかをうまく把握しようとしない、まだ明瞭に働かない己の思考や体に僅かに苛立ちを覚えながらも嘉神はもう一度体を起こそうとし、夕日の色を見た。
「……レン」
 見慣れた赤が、ゆらんと揺らめく。安堵と、それから怒りが混じり、潤んで揺れる。
 その揺らめきに共鳴するように己が心も揺れ、内腑を掴まれたかのような感覚――罪悪感というしかない感覚を嘉神は覚えていた。
――心配させたか……
 己が何をしてこうなったかぐらいの記憶はある。


 MUGEN界では時空の歪みが生じることは多くは無いが珍しいことではない。
 新たな世界との融合の予兆であることもあるが、MUGEN界に害なすものの侵入や世界の崩壊に繋がる事象の前触れであることも少なくない。
 今回は後者の見過ごせないものであり、またその規模も小さくないものだった。その為、嘉神達四神及び黄龍である慨世に事態の対応が依頼されたのだ。
 歪みへの対処は当然簡単にすむものではなかったが、順調に進んでいた。
 しかしあと少しで歪みを修復できるかと思われたその時、塞がりかけた歪みより大量の邪気が吹き出したのだ。
 数日がかりの処置が終わろうとしていた段であったが、嘉神達に気の緩みはなかった。それは嘉神は確信している。だがそれでも、虚を突かれ、一瞬動きが止まっていたことは事実だ。
 一番最初に動いたのは嘉神だった。
 自らに邪気を引き寄せ、その間に歪みを閉ざせと他の四神に指示したのだ。
 応えを待たずに嘉神は邪気を己へと導き――そして意識を失った。


 意識を失っていた間に「あったこと」もおおよそは把握している。意識を失ったと言ってもそれは肉体と結びついた部分だけであり、精神に限定すれば嘉神は事態を把握できる状態にあったのだ。
 嘉神自らが対処するはずだったことに、レンに割って入られた。状況的に仕方なく嘉神はレンに対応を任せた――レンの安全を確信した上で――のであった。
 故に、レンがこんな顔をする理由も嘉神は推し量ることができた。
 されど。
 理由を推し量ることができるのと、自分に向けられた感情に応じるもっともよいすべを見出すことができるかどうかは、全く別問題だ。
「…………」
 ようやく明瞭になってきた頭で暫しの熟考、及び逡巡の後、レンの髪を撫でてやるのが嘉神の精一杯であった。
 とん、とレンは嘉神の胸元に顔を埋める。ぎゅう、と抱きつく腕に力がこもったのがわかった。
 おそらく、何を言おうともレンは嘉神を離さないだろう。
――……むう……
 声には出さず、嘉神は唸る。そんな困惑の念をよそに、嘉神の胸の内よりじわじわとあたたかいものが広がっていく。

 憤怒の熱、悲嘆の冷たさ、絶望のどうしようもない虚ろさ――それらを払う、やわらかでやさしく、心地よい、ぬくもり。

「……」
 嘉神は体の力を抜き、寝台に深く身を預けた。誰も見る者などいないはずだが、顔を左の手で――レンの髪を撫でていない方の手で――覆う。
 いたたまれない、というのとは少し違う。
 気恥ずかしい、というのとも少し違う。
 この想い、感情をなんと言えばよいのかわからない。わからないが、今の己の顔は誰にも、何にも見られたくない。
 顔が火照っていないことだけが嘉神の僅かな救いだった。

「……そろそろよいかの?」
「!?」
 穏やかでやさしい、しかし明らかに笑いを含んだ声に嘉神は跳ね起きた。
 レンはしっかりと嘉神に抱きついたままだ。
「し、師匠……」
 よっこらせ、と寝台の傍らの椅子に座って、玄武の翁はほっほっと笑った。
「いつの間に……」
 目を覚まして間もなかったとはいえ、また老いたとはいえ優れた剣士であることには変わりない翁であるとはいえ、声をかけられるまで全く何も気づかなかったのは嘉神としては不覚だ。
「ほんの今よ。起きたようだとお主の式神から聞いてな。横になっておるからまた眠ったかと思うたが……ほっほっ、元気そうじゃの。悪いところはないかの」
 寝台の脇机に置かれた水差しからコップに水を注ぎ、翁は嘉神に手渡した。
「特に……問題は無い……」
 抱きついたままのレンをどうにかしようと試みたが叶わず、あっさりと嘉神は諦めた。こういう時のレンは妙に頑固に言うことを聞かないものであることを経験上よく知っている。何より、翁に聞くべきことがある。
「歪みはどうなった」
 コップの水を一息に飲み干し、問う。
「無事封じた。お主が邪気を引き受けてくれたおかげじゃ。じゃがの」
「……っ」
 ぺちん、と軽い音と共に嘉神の頭に軽い痛みが走る。いつ取り出したのか、翁の手に現れた竿が嘉神を打っていた。
「無茶をしおってからに。お主が倒れたときにはさすがに肝が冷えたぞい」
「あの程度の邪気、多少浴びたところでどうということはない」
「自分の身の安全を考えた上での行動であったかの?」
 嘉神は沈黙した。抱きつくレンの腕に力がこもったような気がする。
「やれやれ、お主はその手の無茶をする質ではないと思っておったが」
「……咄嗟の判断ではあったから幾分粗雑になったが、それでもあれが最善の手だ」
 歪みは封じ、消し去らなければならない。ならば少々の無茶は当然のことであり、それは翁もわかっているはずのこと。
 それに嘉神には別段、己を犠牲にするつもりなどなかったのだ。危険は承知の上での行動であったが、けっして己を軽んじたつもりもない。
 どん、と今度は胸元に衝撃と痛みが走った。
 その元は、レンの小さな拳。どん、どんと何度も何度もレンは嘉神の胸を叩く。再び嘉神を見上げる夕日の赤は湛えられた涙にゆらゆらと揺らめく。
「【……慎之介の、ばか……ばか、ばかばか……】」
 声は聞こえないのに、そんな風になじられている気分だった。
 あの時の己の判断、行動に誤りはない。嘉神はそう確信している。しているが、レンを見ているとどうしても罪悪感を抑えられない。
――不可解で……理不尽だ……
「ほっほっ、わしらが何を言うよりもレン殿に責められる方がお主には堪えるようじゃな」
「…………」
 笑う翁を前にむすりと口を引き結ぶことしか嘉神にはできなかった。
「それにしてもレン殿、今日慎之介が目覚めてよかったのう」
 まだ嘉神の胸を打つレンの背を、なだめるように翁が撫でる。
「……!」
 はっとレンの動きが止まった。
 一度翁を振り返り、嘉神を見上げる。小さな両の腕が再び嘉神の背に回され、ぎゅうと抱きつく――いや、抱きしめる。
 抱きついたまま見上げたレンの頬はほんのり上気し、揺らめきのない夕日の赤に嘉神は喜色を確かに見た。
「何かあるのか」
 そもそも今日はいつなのか。まだ嘉神は自分がどれほどの間意識を失っていたのかも知らない。
「今日は如月の二十二日ぞい」
「如月二十二日……ああ……そうか……」
 そんなに――記憶違いでなければ、五日は眠っていたことになる――過ぎていたのか、と思うよりも先に嘉神は得心していた。
 何の日であったか、かつてならばまるで意識することのなかった、今日という日。
 嘉神慎之介が生を受けた日。
「居間の暦に印をつけてあったでな。一日、一日と過ぎた日を示す印ものう」
 あれはレン殿であろう? と問うた翁は答えを求めた風はなく。嘉神もレンも答えないのを気にもせず、よっこらせ、と椅子から下りた。
「なんぞ、持ってこようの。さすがに腹が減ったじゃろう」
 そう言いながら部屋を出て行く翁の背が笑っているように見えたのは嘉神の気のせいだったか、どうか。
 それを確かめるすべはなく、またそれに思考を割く間も、なく。
 ぎゅう、と強く抱きしめられた感触に視線を動かす。

「【おめでとう、慎之介】」

 見つめるやわらかな赤が、祝ってくれている。祝いの中に安堵と喜びを織り交ぜて。

「【それから、おかえりなさい】」

「……ああ」
 自然と、声は出ていた。不可解で理不尽な罪悪感はまだ残っているが、それすら包み込むように胸の奥が、熱くなる。
 レンの、さらりとした青銀の髪を撫でる。
「感謝する……レン」
 それから、と。
 レンの夕日色の眼を真っ直ぐに受け止め、嘉神は囁いた。
「……戻った」
 と。
 それが悪くないと、喜びとなっている自分を嘉神は明確に意識していた。

     §     §     §

 寝台で目を閉じている嘉神の表情は、穏やかだ。血色も悪くはない。
 深く眠ってはいないが、うとうとと浅い眠りをその意識は漂っている。
 寝台の傍らの椅子に腰掛けたレンは、やっぱり、ときゅっと眉を寄せた。
 あれから翁が持ってきた粥をきれいに平らげた嘉神はもう問題ないだなんだの言って、寝台から出ようとしたのだ。今回の件も含めてやることは色々とあると主張する嘉神を、翁がたしなめ、示源が叱りつけ、慨世がなだめ、金の髪と藍の髪の楓が二人がかりで寝台へと押し込み、レンが抱きついて動きを封じて――ようやく、今日一日は寝台でいることを嘉神に承知させたのだ。
 不満そうにしていた嘉神だったが、レン以外の皆が部屋から出ると次第にそのまぶたは閉じ、やがて体から力が抜けていった。
――ほら、まだ、だいじょうぶじゃないのに。
 どうして、という疑問の答えは既にレンは持っている。
 嘉神慎之介は朱雀の守護神としての在り方に忠実なのだ。たぶん、骨の髄まで守護神なのだろう。骨の髄の髄にはちゃんと人としての「嘉神慎之介」がいることをレンは知っているけれども、でも嘉神は朱雀の守護神である自分を往々にして優先する。
 だからあの時も躊躇わずに邪気を己で引き受けたに違いないのだ。
 引き受けた邪気は自らの炎で焼き尽くすつもりだったようだ。それで自らがどれほど傷つこうが、自らがどれほど損なわれようが、厭わなかったのだ。
 この屋敷に翁達が連れ帰った意識のない嘉神を目にしてすぐ、レンはそれを察した。使い魔と主の繋がりだとかそれ以前に、嘉神を今まで見てきたレンには嘉神が何を考えてこうなったのかがわかる。
 けれど、レンにはそれは許せなくて。
 だから、すぐさま嘉神の意識へと飛び込んだのだ。
 嘉神が自らを傷つけぬように、邪気に侵食されても変わらないはずの嘉神を嘉神自身から守るために。

 それは、嘉神がしたことと同じくらい危険なことだと、ついさっき慨世にこんこんと叱られたことではあったのだが。

――でも慎之介は、わたしが守らなくちゃいけないもの。
 素直に慨世の言葉に頷いて見せながらも、レンはそれだけは譲れなかった。苦笑していた慨世はどうやらそこまでお見通しな様子だったがレンには関係の無いことだ。
 レンが望むのは、ただ。

 わたしの知らないところで、無茶をしないで。
 無事でいて、元気でいて――どこに行ってもわたしの傍に、戻ってきて。

 ずっと、いっしょだから。

 ゆるゆると意識を眠りの深い淵へと沈めていく嘉神にレンは顔を寄せた。

「【誕生日、おめでとう、慎之介】」

 今年も、来年も、その先も、何度でもこの言葉をこの日にレンは嘉神に贈りたい。プレゼントも贈り、ケーキやご馳走を食べたい。
 嘉神が生を受けた特別なこの日をいっしょに時を過ごしたい。
――だから、無茶はしないで。無理をしないで。
 祈りと、願いと。たぶんきっと、頷いてくれないと知っているそれらを胸にレンは嘉神に口づけた。
 

-Powered by 小説HTMLの小人さん-