誕生日ログ

夢と現と確かな想いと。

 彼は猫であった。
 栗色の毛はすべやかで、三角の耳はピンと立ち、夏の空のような青い眼はきらりと輝く。優美に伸びたしっぽは彼の感情を雄弁に示し、鋭い爪と牙は得物を逃すことはない。もっとも彼は無闇に小鳥やねずみといった小動物を襲うことなどはしなかったが。
 小動物を狩らずとも彼が食べるものに困ることはないというのが一番の理由だが、彼は狩りよりものんびりと時を過ごすことの方を好んでいた。
 彼が食べ物に困ることはないというのは、つまり彼は飼い猫なのであった。
 飼われているといっても、彼の暮らしは猫族らしく気ままなものだ。好きなときに寝て、好きな時に起きる。腹が減れば台所へ行けば決まった時間には用意されているし、用意されていない、あるいは時間以外の時でもせがめばたいていありつけた。
 彼はこの生活に満足していた。寒さに震えることも、暑さを厭うことも、空腹に鳴くこともない。敵を警戒することもなく、縄張り争いに頭を悩ませることもない。穏やかで平穏そのものの暮らし。
 だが何よりも彼を満足させていたのは、その少女の存在。
 青銀の髪はさらりと長く、その眼は夕日と同じ色。黒い服を纏ったその少女は、彼の『飼い主』であった。
 飼い主と言っても先に述べた通り、少女は彼を束縛することなく自由に暮らさせている。もちろん、彼が少女に満足しているのはそれだけが理由ではない。
 少女は彼がねだれば食事を出してくれるし、膝の上に抱き上げて喉や耳の後ろをかいてくれる。彼が構われたくない時はその意志を汲んで放っておいてくれるし、逆に遊び相手が欲しくなった時には相手もしてくれる。
 もちろん、彼女にも彼女の都合というものがあるのだからして、いつもいつも彼の思う通りにはいかない。
 だがその程度のことで彼は機嫌を損ねたりはしない。彼はそんな狭量で物わかりの悪い猫ではない。
 何より、彼は彼女が好きなのだ。
 思わずじゃれつきたくなる彼女の長い青銀の髪も、優しく自分を見つめる彼女の夕日色の眼も、実に心地よく体を撫でてくれる彼女の白い指も、彼は全て好きだった。
 だからその日も、彼は彼女と遊んでやろうと屋敷内をうろついていた。彼女のいる場所は大体決まっている。台所か、居間か、彼女の部屋か。この時間なら居間だろうと彼は少し駆け足に廊下を行く。
 居間のドアは閉まっていたが、ちゃんと彼専用の入り口はある。ドアの左下の専用の入り口をくぐって居間に入れば、やはり彼女の姿はあった。ソファに腰掛け、何か本を開いている。絵本だろうか。きれいな、たくさんの色を使った絵を見るのが彼女は好きなようだ。
 彼は僅かも足音を立てずに彼女の元へと駆ける。軽く床を蹴ってソファの彼女の隣に飛び乗ると、じ、と彼女を見つめた。
「…………」
 彼女は彼を見ると、膝の上の本を閉じて脇に置いた。そして一つ、頷く。無口で表情の変化も少ない彼女だが、彼には十分意志は伝わる。
 それを見て取ってから、彼は彼女の膝の上に上がる。彼女は小さな少女だが、その膝は彼が乗るのには十分だ。
 膝の上に上がった彼の背を優しく彼女は撫でた。心地よさと構ってもらえる嬉しさに喉が自然にごろごろと鳴る。簡単に喜んでみせるのはどうかとも彼は思うが、彼女は特別なのだから仕方がない。
「にゃあ」
 彼は一声鳴くと感謝と親愛の想いを込めて鼻面をちょんと彼女の頬に押し当てた。濡れた鼻先に触れる彼女の頬は柔らかく、あたたかい。
「…………」
 彼女の夕日色の目が細くなる。笑んだのだ。笑んだまま彼女は花片のような唇を彼に寄せ、その鼻先に口づけた。
――…………、…………
 少女の囁き、銀の鈴を振ったかのような声を、彼は聞いたように思った。


「………………」
 嘉神慎之介は目を開いた。
 眠りから覚めたばかりの少し曖昧な意識が現実へと収束する感覚に身を任せながら、一度、二度、瞬きする。
 ここは嘉神の屋敷の居間。確か、ソファに座って本を読んでいたはずだと記憶を辿る。
――眠っていたか……
 まだ少しぼんやりと中を眺めながら嘉神は思う。
 ここしばらく何かと忙しかったこともあって疲れが溜まっていたのか、うたた寝をしていたらしい。持っていたはずの本は手にない。眠った拍子に落としたか。
 本がどこに行ったかと嘉神は何気なく視線を動かす。
 と、膝の上に乗った『彼女』の赤い目と目が合った。
 黒い大きなリボンをつけた、黒い猫である『彼女』――
――……レン。
 レンは、嘉神の膝の上でじいっと嘉神を見上げている。そういえば膝の辺りがあたたかいと感じていたなと感覚と思考をようやくリンクさせつつ、嘉神は何気なくレンの背を撫でる。
「にゃあ」
 心地よさげに喉を鳴らし、一声レンが鳴く。かなり機嫌が良さそうだ。
 その声に、嘉神は先程見た夢を思い出した。
――……妙な夢だった……
 それは『嘉神慎之介』が猫である夢。夢の中で栗色の毛の猫であった嘉神は猫らしく気ままに生きていた。といっても野良ではない。一人の少女に飼われていた。
――レンによく似て……いや、あれはレンだ。私はレンに飼われていた……
 夢の中で少女に甘えていた猫は嘉神。優しく猫の背を撫でていた少女はレン。二人は丁度今と全く逆の立場だった。
「……昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり――か」
 すりすりと頭を嘉神の胸元にすり寄せるレンを撫で、嘉神は低く呟く。
――私は蝶ではなく、猫であったが。
 だが荘周――荘子が喜々として胡蝶であったように、嘉神もまた喜々として猫であった。『嘉神慎之介』であること、朱雀の守護神であることなど全く念頭になく、ただただ猫として生きていた。
「知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを」
 呟く嘉神を、レンは撫でられながらじっと見つめている。心地よさそうに目は細められているが、レンの赤い、夕日色の目は嘉神から逸らされることはない。
「……荘子に倣うわけではないが……フ、こうしていると何が夢で何が現か、存外判然としないものだな」
 自分を見上げているレンに嘉神は苦笑して見せた。
 黒猫のレンを撫でる、朱雀の守護神であり人である嘉神こそが現なのか。
 少女のレンに撫でられる、栗色の毛の猫である嘉神こそが現なのか。
 あるいは、どちらもが夢幻で、他に夢を見ている『嘉神慎之介』がいるのか。
――だが、一つ。
「にゃあ」
 一声、レンが鳴く。
 ちょん、とレンの鼻先が嘉神の頬に触れる。濡れた猫の鼻先は冷たいが、触れた感触は少々くすぐったく、愛おしい。
 同じことを猫であった自分もレンにしたなと思う嘉神の顔には、本人は気づいてはいないが少女のレンが浮かべたのと同じ笑みがある。
「少なくとも一つ、確かなことがある」
 少女のレンの行動なぞるように――しかしそれは間違いなく嘉神の意志だ――嘉神はレンに顔を寄せる。
「人であっても、猫であっても、私はお前と共にあるらしい……」
 他に夢を見ている『嘉神慎之介』がいるとすれば、その側にも『レン』はいるだろう。
 どこにも確証はない。現との境界もあやふやな夢の話だ。だが嘉神は、そうなのだと信じた。
――そうであるならば悪くない……たとえこの身がいかなるものであろうとも……
 レンが己の傍らにいる、己がレンの傍らにいる。
――彼女と暮らす猫である私は幸福だった。レンと暮らす人である私は――
 嘉神は、そっとレンの鼻先に口づけた。夢であっても現であっても、人であっても猫であっても、嘉神の想いは同じ。
――私なのだから当然か。
 嘉神の唇が触れたレンの鼻先はやはり濡れている。
――……む。
 不意に、唇に触れる感触が変わったのを嘉神は感じた。
 目の前には夕日の赤。だがさっきまでの猫の瞳の細いそれとは異なっている。
 嘉神が状況の変化を認識するより早く、するりと細い腕が首に回される。
 ぎゅうと抱きつく『彼女』は既に少女の姿。

――ハッピーバースデー、慎之介。

 それが、猫であった時にも聞いた言葉だと嘉神が気づいたのは、レンの花片のような唇が己のそれに重なった後だった。




 後になって、嘉神はあの夢はレンが見せたのではないかと思い至ったが、それを問うことはなかった。
 レンもまた、そのことで嘉神に何かを伝えることはなかった。
 

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