誕生日ログ

月がとっても青いから 彼岸の花が赤いから

 西の空には昼の残滓がほんの僅かな赤となって残っているが、それももう間もなく消え失せるだろう。
 時の経過と共に、緩やかに夜の帳が徐々に天を覆って世界を昼から夜へと塗り替えていく。
 東の空に姿を現した、丸く青い月のために。

 繊細で精緻な冠のようなその赤い花、彼岸花は誰に言われたわけでもないのに身を寄せ合い、列を成して土手の上のその道を飾り立てる。
 どこまでもどこまでも、川が海へと流れゆくその時まで見守るが如く、どこまでも。
 それはこの季節だけに現れる、赤い赤いもう一つの川。

 それは、今日は月がきれいだから夜のお散歩しませんか、と誘われたから。
 特にあてもなく足の向くまま気の向くまま楓と扇奈は青い夜をそぞろ歩く。
 そしていつしか、その川の土手の道へと足を踏み入れていた。
「きれいですね」
 ぽつりと、彼岸花の花片を滑り落ちる月の光のように、自然に扇奈の口から言葉はこぼれ落ちた。
 青い月明かりの下でもその花の赤は鮮やかだった。
 青い光の中に、ぼうっと浮かび上がるように続く赤い花の群れは昼間よりも幻想的だ。
「……うん」
 扇奈の隣を行く楓は、曖昧に頷いた。
 彼岸花に目を向ける。無数に群れて咲く、上等な細工物のような赤い花の姿に、寂しいような悲しいような気持ちが楓の胸をよぎった。
――やっぱりこの花は……
「楓さん……?」
「えっ」
 声に意識を戻せば、間近にあった扇奈の顔に楓は思わず一歩後ずさった。
「どうしたんですか?」
「ああ、うん……」
 どう答えようかと楓は迷う。扇奈は自分の様子に気づいて心配してくれているのだろうから、それを無碍にはしたくない。だが、この気持ちの理由は簡単には説明できない。
「楓さん?」
「たいしたことじゃないんだけどね」
 重ねて問うた扇奈に、楓は弱く笑む。
「……ちょっと、この花は苦手なんだ」
「そうなんですか……
 誘ったの、いけなかったですね……」
 しゅん、と肩を落とした扇奈に、慌てて楓は首を振った。
「いや、ちょっとだから。それに、この花はきれいだと僕も思ってるよ。
 だから扇奈は気にしないで」

「彼岸花にはね、色んな名前があるの」
 子供の頃、そう楓に教えてくれたのは姉の雪だった。
「曼珠沙華、狐花、それから幽霊花とか、す……」
 言いかけて、雪は言葉を切った。その時の雪の表情を、楓は良く覚えている。
 寂しげで、悲しげな顔だった。言ってはいけないことを言いかけた、今振り返ればそんな焦りの色も姉にはあったように楓は思う。
「こんなにきれいなのに」
 姉の言葉の、そしてあの表情の理由と意味を楓が理解したのは、ずっと後、彼岸花の別の異名を知ったときだった。

――捨て子花――

 なぜそんな名がこの赤く精緻な美しさを持った花についたかはわからない。
 わからないが、この花は確かにその名も持つ。
 そして、「捨て子」という言葉は楓の心に影を落とすのだ。
 楓は実の両親の顔を覚えていない。覚えている一番古い記憶は泣きながらたった一人で誰かを探していたことだ。
 あの時、楓は迷って親とはぐれてしまったのか、それとも捨てられたのかはもうわからない。
 ただただ、心細く、悲しかった。周りに人はたくさんいても、自分はもうひとりぼっちなのだと楓は知っていた。
――いつもなら、気にはしないんだけどな。
 青い青い月を仰ぎ、楓は思う。
 彼岸花の異名を知ったとき、あの時の姉の態度や表情の意味を楓は理解した。彼岸花に思うことがあるようにもなった。だからといって彼岸花にいつもいつも物を思うこともない。そこまで楓は感傷的な人間でもなく、またそれ以上に、父や兄、姉たちとの生活は遠い記憶の心細さを癒してくれたのだから。
 今日、こんな気分になってしまうのはこの月のせいなのかもしれない、などと楓は思う。青い月の青い光の中の彼岸の花はあまりにも美しく、幻想的で、あまりにも数が多く、花の列には果てが見えない。
 その光景は楓に、たった一人で誰かを捜していたあの時見た、自分の周囲を通り過ぎていく見知らぬ他人の群れを思い出させるのだ。

 とん、という衝撃は柔らかく走った。
 するりと背に回された腕はしなやかに優しく楓を捕らえる。
 そのぬくもりはとても心地よく、何故かとても懐かしかった。

「……えっ……?」
 視線を落とせば、そこには先よりも近く、扇奈の顔があった。
「大丈夫ですよ」
 そう言って、扇奈は微笑む。背に回された腕に力がこもる。
 何がだとか、どうしてだとか、一瞬楓の脳裏をよぎったそんなことはすぐにどうでもよくなっていた。
「大丈夫、ですから」
 重ねた扇奈の言葉の優しい響き。
 ぎゅうっと抱きしめてくれる扇奈の体の柔らかさ、ぬくもり。
 それらが楓に教えてくれる。楓は一人ではないと、大丈夫なのだと。
――あぁ、そうだ、これは……
 目を閉じて楓は思い返す。このぬくもりの懐かしさの訳を。
 探しても探しても見つからず、泣き続けていた小さな楓を抱き上げてくれた大きな人。あの人、師であり養父である人がくれたぬくもりと、扇奈のぬくもりはとても似ているのだと。
「……うん、大丈夫だ」
 頷いて楓は、そっと扇奈の背に腕を回した。


 それは少女のおつかいの帰り道。いつもは共をする大男が用があっていないからと、同行を青年は頼まれた。
 めんどくせぇ、なんで俺がと突っぱねたはずが、何故か青年は付き合わされている。用自体はたいしたことはなかったが、出かけた時間が遅かったためにすっかり暗くなってしまった。
「月がとっても青いから〜」
 澄んだ秋の空気に楽しげな歌声を響かせ、少女――一条あかりは弾むような足取りで彼岸花の群れの中を行く。あかりの足取りに合わせ、大きく跳ねたくせ毛がぴょこぴょこと踊るように揺れている。
「遠回りして〜」
 くるり、とあかりが振り返った。
「たら道に迷うてしもうたやないか!」
「……あん?」
 び、とあかりに指をさされた青年――空条承太郎は怪訝に眉を寄せる。
 土手の上のこの道は一本道だ。迷うはずもない。
 何を言ってるんだこいつは、と思う承太郎の前で、ぷうっとあかりは頬を膨らませた。
「あーもう! 兄ちゃん相変わらずノリ悪いなぁ!
 ここは兄ちゃんも振り返って「道に迷うてしもうたやないか!」って言うところやん!」
 承太郎はあかりの言葉を黙殺した。
 無言で歩き、あかりを追い越す。
「待ってや、兄ちゃん! おいていかんとってーな!」
 からころとあかりのぽっくりの鳴る音が承太郎を――
――うん?
追ってこない。いつもならきゃんきゃんとにぎやかに追ってくるはずのものが来ないことに振り返りかけ、しかし承太郎は動きを止めた。
『――――』
 それは声というより、意志。
 音もなく承太郎の背後に、黒髪の筋骨たくましい男が現れる。
 承太郎のスタンド、スタープラチナだ。
『――――』
 スタープラチナはじっと承太郎を見つめている。その指示を待つかのようで、何かを促すかのように。
「…………」
 承太郎は一つ、肩をすくめた。
 そのまま歩き出す。
 スタープラチナは無言で承太郎に従う。だがその鋭い、闇をも見通す目は彼岸花の群れへと向けられている。
 スタープラチナの視線の先で、風もないのに彼岸花の群れが揺れた。
『――!』
 目にも止まらぬ動きで――そもそもスタンドはスタンド使い以外には見えないのだが――スタープラチナが動く。
『!?』
 驚きを示したのはスタープラチナであり、承太郎でもあった。
 スタープラチナがその手に掴んでいるのは、一条あかりの首根っこ――ではなく。
 ひらり、と白い紙が一枚地に落ちる。
「隙ありやー!」
 してやったり、その意に満ちた元気な声と共に、軽い衝撃が承太郎の身を走った。
 衝撃というにはそれは余りに軽く、夜の冷えた空気とはまるで異なる温かさを宿していたのだが。
 人の形をしたあの紙があかりが術に使うものだと承太郎が思い出したのはまさにその時。
「へっへっへー、一本取ったで」
 してやったり、得意げな笑みが承太郎を見上げている。
 承太郎の腰に抱きついているのは、小さな陰陽師。
「何が一本取った、だ」
 スタープラチナが、今度こそあかりの首根っこを掴んで承太郎から引きはがす。
「ノリ悪い兄ちゃんが悪いんや」
 ぷいっとあかりはそっぽを向く。スタープラチナが手を離せば、そっぽを向いたままあかりは着地した。
「やれやれだぜ」
 承太郎はまた、肩をすくめた。
――この程度でわざわざ術まで使ってくるとか、ガキの考えることはわからねえ。
「…………」
 あかりはまだそっぽを向いている……が、時々ちらっと承太郎を横目で見ては反応を確かめている。
 これを気づかれていないと思っているところがガキだと思いつつ、承太郎は歩き出す。さっさとこの厄介な少女をうちに送り届けて終わりにしてしまいたい。
「行くぞ」
 あかりの前を通り過ぎざまに、その頭をくしゃりと撫でる。
「ひ……ひゃあ!」
 大げさなまでに大きな声をあかりが上げたのは、承太郎が十歩は歩いた後のこと。
「なんやの兄ちゃん! れでぃの髪を気安うさわらんとってーな!」
 わきゃわきゃとにぎやかに叫びながら、カラコロと木履を鳴らしてあかりは承太郎を追いかける。
 承太郎は肩越しにほんの僅か、あかりには気づかれない程度に振り返った。
 駆けてくるあかりの顔は、青い月明かりの中でも赤く染まっているのがわかる。
――……取られた一本の返しは、こんなもんだろ。
 承太郎の唇の端がほんの僅か、つり上がった。


 それはとある大会の帰り道。どちらから言い出したわけでもない、不思議な二人の遠回り。
 秋の空は高い。高く、軽やかに澄み渡る。それは昼であっても夜であっても変わらない。
 夜、昇り行く月は青く輝き、丸く大きく、それでいて遠い。
 遙かな高みで月は静かに地を見守る。青くやわらかな光を地にそっと投げ、夜を行く者のささやかなしるべとする。

 守矢のようだ、と舞は思った。

 赤い髪の剣士は黒いコートをまとい、青い月の光の下、赤い彼岸花の群れが縁取る道を行く。
 その隣を行きながら、そっと舞は剣士――守矢の横顔を見る。
 守矢は真っ直ぐと前を見つめ、無言で歩んでいる。月の光に照らされたその横顔は、端正そのもの。

 月のようだ、と舞は思った。

 どこがどう、とははっきりわからない。はっきりしたものにしようとすれば、言葉はするりと舞の内からこぼれ落ちていってしまう。
 なんとか形になったのは――
――だって、きれい。
そんな、他愛もないこと。
 あまりにも他愛のない、子供のような自分の想いに舞は一人赤面してうつむいた。その歩みがほんの僅か、遅くなる。
 自然、うつむいた舞の視界で、守矢が少し前に出る。
――……あ。
 おいて行かれる。それは落ち着いて考えればあり得ないはずのこと、しかし月のせいか、視界の隅に群れなす彼岸花の、守矢の髪と目の色にも似た赤い色が幻惑したか――舞はそう思ってしまった。
「待って」
 とっさに手を伸ばした舞が掴んだのは、守矢のコート。
「…………」
 足を止め、守矢が肩越しに舞を見やった。
 その赤い目が舞を見、コートを掴む舞の手を見る。いつもと同じ、無表情なままで。
「ごめん、なさい」
 さっきより更に顔を赤くして、舞はコートから手を離した。
「いや」
 視線を舞に戻し、守矢は首を振る。
 そのまま前に向き直り、また、歩き出す。
――守矢……
 舞は、見ていた。
 向き直る守矢が、ほんの微か、笑んでいたことを。
 青い月の光の幻のようなやさしくも刹那のそれは、しかし確かに舞の心に焼き付いた。
――……きれい、だった……
 守矢に続くことも忘れ、青と赤の光景の中、立ち尽くす舞を我に返らせたのは、
「舞?」
再び足を止め、振り返った守矢の声。落ち着いた低い声の怪訝な響きの中に、舞を案じるものが入り混じっている。
「あ、うん」
 舞は守矢に駆け寄る。
 その際、慌てたのがいけなかったのだろう。
「あっ」
 舗装されていない土手の道の、石かくぼみかにつまづき、舞は転びかけた。
「…………」
「…………」
 守矢は舞を抱きとめていた。
 支えを求めた舞も、受けとめてくれた守矢にとっさに抱きついていた。
「大丈夫か」
 囁くように問うた守矢の声は、いつも通りに静かで、いつもと何も変わらない。
「……うん」
 だからこっくりと、舞はただ頷いた。守矢はあたたかい、そう、思いながら。そしてそう思うので精一杯で、舞は気づかなかった。
 「そうか」、と頷いた守矢がまた、そっと微笑んでいたことに。


 それは、彼女の探し人――追う者であり、追ってくる者――を探して回った帰り道。
「すごいね」
 なんの気無しに足を向けたその土手の赤い花の群れを見たとき、ククルが洩らしたのは感嘆に満ちたその一言だった。
「こんなにもたくさん、赤い花。ずっと、ずっと向こうまで」
「ああ、すごいな」
 頷き、ほんの少しその緋色の目を細めて楓は彼岸花の群れを眺めやる。
 青い光の下、それは夢のように――悪夢のように限りなく続いている。

――やっぱ、この花は苦手だ。

 自然とその眉が寄る。
 彼岸花の異名、「捨て子花」。この名は楓をほんの僅か、いやな気分にさせる。
 幼い頃の経験だけが、実は理由ではない。その名を知った頃のこともまた、楓がこの花を苦手とする理由だった。
 楓にこの花の異名を教えたのは、玄武の翁だった。
 常世に堕ちた朱雀の守護神、嘉神慎之介に楓達の養父慨世が殺され、嘉神を追って義兄守矢が行方をくらました――あの時は、守矢が慨世を殺したのだと楓は思い込んでいたのであるが――後、楓は義姉の雪と共に玄武の翁に引き取られた。
 それからしばらくして、雪もまた旅立ち、一人残された楓はある年の秋に玄武の翁に問うたのだ。
『彼岸花の別の名前って、どんなのがあるんですか?』と。
 あの時はさして深い意味はなかった。修行の合間、翁の庵の近くに咲き乱れていた彼岸花を見て、なんとなく問うただけなのだ。翁もまた、なんでもない様子で色々な名を教えてくれた。
『曼珠沙華、石蒜(せきさん)、不吉なものでは死人花や地獄花、幽霊花、それに捨て子花などというものもあるのう』
 わしはきれいな花じゃと思うのじゃがな、と優しい目で翁は彼岸の花を眺めながら言っていたが、楓の胸には「捨て子花」の名が重く感じられていた。
 養父が死に、義兄が消え、義姉が去り、たった一人残された自分の様を、この無数の赤い花々に突きつけられている気がして。
 時が経ち、義兄への誤解が消え、様々な巡り合わせや一種奇跡のようなこの世界での新たな暮らしの中であの時の思いは和らぎはしたものの、未だ消えてはいない。無数の赤い花を目にして、楓はそれを思い知らされた。
――未だに引きずるなんざ、情けない話だがな……
 自分自身に苦笑して、楓は頭をかこうと手を上げた。
 が、その手は妙に重い。なんだと目を向け、そのことにやっと気づいた。
「…………」
 ククルが心配そうに自分を見つめていること。
 その両の手が、ぎゅっと自分の手を握っていること。
「……?」
 しかし何故ククルがそんな表情で自分の手を握っているのかさっぱりわからず、楓は首を捻った。
「楓、大丈夫?」
 ククルは更に心配そうな顔でじ、と楓をその緑の目で見つめる。
「大丈夫……って、俺が?」
「だって楓、悲しそうだよ」
「あ……」
 まるで楓の感情が移ったかのように自分も悲しげな顔をするククルにようやく楓はその行動の意味を理解した。
「そう……か」
 
 ククルの緑の目に映った自分が、小さく笑んだのを楓は見た。

 それは照れくさそうであり、安心したようであり――そんな自分の顔を見ていると落ち着かない気分で、楓はククルから目を逸らし、同時にぎゅっとその体を片手で抱きしめた。
「……えっ?」
 きょとんと戸惑った声を上げるククルに構わず、抱きしめる腕に楓は力を込める。
 今はそうしたかった。ククルの手を握り返すよりも、ククルの頭を撫でるなどよりも、そう、楓はしたかった。
「大丈夫だ。心配ねえよ」
 ククルの耳元で、楓は囁く。
「けど……ありがとな……」
「……ううん」
 驚きの治まった声でククルが応える。
 ククルの手が、楓の手から離れる。その手が楓の背に回り、きゅ、と抱きしめ返した。
 よかった、嬉しそうに呟くククルの声に、楓は「あぁ、よかった」と呟いた。

――お前が、いてくれて。


 昼の残滓は夜の帳に払われて、世界はもうすっかり闇の中。
 青い月は遙か天の高みから、静かにやわらかな光を地に差し向ける。夜を行く者達を、夜に在る者達を照らし出すために。
 赤い花はただ咲き誇る。無数に集い、ほんの数日の間、赤い列を地に描いて。
 青と赤の狭間で、人は、夢を見る。過去の夢を、今の夢を。
 そして夢の狭間に、人は想いを知り、想いを交わす。
 一つの月と無数の花はただ、それを見ている――
 

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