誕生日ログ
ある特別な日の賑やかで特別な前日
ここ数日、レンは少々不機嫌であった。
理由は簡単、嘉神が相手をしてくれないのである。何やら忙しくしているらしく、一人外出することが多い。ついていこうとすると仕事だから、と拒まれてしまう。
十時と三時のお茶の時間はちゃんと一緒にいてくれるのだけが幸いであるが、そろそろレンの我慢も限界に近づきつつあった。
そんなときに届けられた一通の招待状。届けたのは志貴であった。
「やあ、レン。元気にしていたかい?」
「…………」
以前と変わらず穏やかに声をかける志貴にこくりと頷き、レンは招待状を開いた
『レンさんへ
おいしいケーキが焼けたので、是非食べに来て下さいね。
遠野のお屋敷の皆さんも顔が見たいって言ってますよ。
琥珀』
「琥珀さんが朝から腕によりを掛けて焼いていたからね、きっとおいしいと思うよ。
翡翠も秋葉も待ってるって言ってたし」
優しい笑みを浮かべて志貴は言う。
「…………」
レンは室内を振り返った。
今の時刻は二時少し前。遠野の屋敷まで行ってケーキを食べれば、戻ってくるのはどんなに急いだとしても三時半は回るだろう。
「……………………」
今日も嘉神は出かけている。レンと、式神の使用人しかいない屋敷はしんと静かだ。
「………………………………」
「レン?」
レンは志貴に向き直ると、こくりと頷いて見せた。
久しぶりに帰ってきた遠野の屋敷は以前より明るい雰囲気のようにレンには思えた。
それが遠野の屋敷に住まう者達の変化によるものなのか、今のレンの心境によるものかは定かではない。
「…………」
レンは屋敷の大きな扉の前で足を止めた。
この扉はレンでは開けない。屋敷に住んでいた頃なら出るときは翡翠か琥珀に開けてもらうか、猫の姿で猫用ドアから出入りしていたものだ。
「レン、どうぞ」
志貴がノブに手を掛け、開く。
パン、パン、パン!
軽い破裂音が幾つも鳴り、色とりどりの紙吹雪が舞う。
驚きに目を見開いたレンの前には、アルクェイドに秋葉、翡翠、琥珀、それに七夜志貴までいた。
「誕生日一日前おめでとう!」
次々に掛けられた言葉が自分への祝いのものだと理解したレンは志貴を見上げる。表情は大きく変わらないまでも、ほんのりとその頬は嬉しさと恥じらいに染まっている。
「おめでとう、レン」
笑みを浮かべて言うと、志貴はぽんとレンの肩に手を置いた。
「…………」
志貴を数瞬見つめ、それから一同にも目を向けると、レンはぺこりと頭を下げた。
「ささレンさん、こっちですよ〜」
琥珀が食堂のドアを開く。
何気なくその前に立ったレンは、
「…………!」
驚きに目を見開いた。
開いたドアの向こうの食堂は、きれいに飾り付けられている。真白いテーブルクロスが掛けられたテーブルには花が飾られ、窓のカーテンはかわいいレースのものに取り替えられている。壁もパステルカラーの布で飾られ、「レンおめでとう!」と書かれた大きなメッセージボードが掛けられている。
しかし何よりもレンを驚かせたのは、一番奥の席、いつもなら当主の秋葉の席の傍らに立つ一人の男。
男は黒い燕尾服を身にまとい、恭しくレンに向かって頭を下げる。
「お待ち申しておりました、レン様」
顔を上げて微笑む、嘉神慎之介。
仕事だ、といって家を出た嘉神が何故ここで、あのような格好をしているのか。嘉神に対して抱えていた不機嫌さも忘れ、説明を求めてレンはアルクェイドを、志貴を、琥珀達を振り返る。
「今日はレンのお祝いだからねー、万全たるおもてなしのために執事を一人頼んだの」
驚くレンに満足してか、アルクェイドはぶいにゃーとVサインして見せる。
「執事指導は僭越ながら俺がやらせていただいたよ」
フッと笑んで七夜が言う。
「全く、こんな子供じみた計画を……」
「秋葉も結構ノリノリだったじゃないか」
腕を組んで溜息をついてみせる秋葉を、苦笑しつつ志貴がたしなめる。
「に、兄さん……っ」
秋葉は慌てているが、一方レンもまだ驚いている。
「レン様、こちらへ。
秋葉様のご厚意により、今日はここがレン様のお席です」
嘉神が、レンを呼ぶ。
「今日だけは特別ですからね」
慌てていたのを隠そうとしてかことさらにつんとした口調で言う、秋葉の表情自体はしかし柔らかい。
こく、と頷いたレンは少し早足に奥の席に向かった。執事としてのいつもと違う嘉神の口調、立ち居振る舞いがなんだかレンを落ち着かせないでいる。
「………………」
レンが歩み寄ると、すっと嘉神は椅子を引いた。続いてレンの傍らに片膝をつき、
「失礼致します」
「……!?」
一言言ってレンを抱き上げる。嘉神に抱き上げられるのは初めてではないというのに、レンは酷く狼狽していた。
いつもと違う口調のせいか、いつもの白い洋装とは正反対の黒い燕尾服を着ているせいか、いつもと違って茶色の髪をきれいになでつけているせいか、あるいはそれら全てのせいか。
レンが狼狽えている間に嘉神はレンを座らせ、椅子の背を押す。
二人がそうしている間にアルクェイド、志貴、秋葉、七夜もそれぞれの席に着いた。それを見計らうかのように食堂のドアが開く。
「にゃにゃにゃーん、ケーキの登場にゃの……ゲフゥッ!」
くるりと一回転して現れた猫のような何かはわずか1Fの内にどつかれ切られ略奪され燃やされ分割されその他色々酷い目にあって消えた。しかしあれが最後のネコアルクとは思えない。我々は驕らず油断することなく日々を過ごさねばならぬのであると決意を固めつつ、何事もなかった顔でワゴンを押して琥珀が現れた。
「はーい、ケーキの登場ですよぉ〜」
ワゴンの上には白い生クリームと赤いイチゴで飾られた見事なケーキが鎮座ましましていた。
レンの元まで運ばれたワゴンから嘉神がケーキをレンの前に置く。続いてケーキに立てられたろうそくに嘉神の手がかざされると、ぽっと一斉に赤い灯がともった。
「さあレン、ぱーっと消しちゃって!」
アルクェイドがうきうきとして言う。この場を一番楽しんでいるのは間違いなくアルクェイドだろう。
「…………」
そっと、レンは嘉神を見上げた。
「どうぞ」
促しの言葉と共に嘉神は頷く。その刹那だけ、執事のそれではなく見慣れたいつもの慎之介の表情だったと、レンは思った。
ケーキに向き直り、フーッとレンはろうそくの火に息を吹きかける。ゆらりと一瞬大きく揺らめいた炎はほぼ同時に全て消えた。
「おめでとう、レン!」
「おめでとう」
「おめでとうございます」
次々に皆が言い、ぱちぱちと手を叩く。
こくん、と一つ頷いてからレンは皆にぺこりと頭をさげた。彼女なりに精一杯の感謝を込めて。
「なかなかに面白い一時だった。感謝していると皆に伝えてくれ」
「…………」
楽しい一時が終わり、見送りに出た志貴に嘉神が礼を言い、レンはちょこんと頭を下げる。
嘉神は髪こそなでつけたままだが服はいつもの白い洋装に改めていた。黒い燕尾服は「さしあげますよ〜。おうちでたまにでも着ると、レンさん喜ぶんじゃないですか?」と笑顔で琥珀に押しつ……プレゼントされ、紙袋に収まって嘉神の手にある。
「楽しんでもらえたなら良かったよ。お疲れ様でした。
気をつけて……っと、二人なら言う必要がないかな」
「この世界では何が起こるかわからん。気をつけるに越したことはない」
志貴と嘉神は互いに顔を見合わせ、苦笑する。本当にこの世界では何が起きるかわからない。危険がどうこうという意味においても、そして、人と人との関わり合いにおいても。
「じゃあね、レン。また遊びにおいで。
嘉神さんと仲良くするんだよ?」
少し身をかがめた志貴に、レンはこくりと頷く。
軽く背伸びし、志貴の耳元に唇を寄せる。
「…………」
「うん」
囁かれた言葉に、笑みと共に志貴は頷いた。
太陽はもう西の空に身を沈めはじめ、黄昏の薄闇が世界を覆い始めている。
その中を、嘉神とレンは並んで歩く。
「…………」
ちらり、とレンは嘉神を見上げた。
もの問いたげな視線に、嘉神はレンの思いを察する。
「……数日前にアルクェイドから連絡があってな。レンのためにパーティがしたい、とな。
その時に……その、私が執事をするという案も持ちかけられたのだよ。私は、そういうのはどうかとも思ったのだが……言いくるめられたというか押し切られたというか……
それで、執事としてのあれこれの特訓を受けることになってな。ここ数日家を出ていたのはその為だったのだ」
いくらか嘉神の口調に言い訳がましいものが混じっているのは、レンに秘密にしていたこと、レンに嘘をついていたことへの呵責のせいか。
「…………」
「……やっている内に私も楽しんでいたことは、否定しない」
堂に入っていた嘉神の執事としての立ち居振る舞いを思い浮かべるレンの視線に、あっさりと嘉神は白旗を揚げた。
「だが……黙っていたのはすまなかったな」
「………………」
レンは顔を伏せた。そうしてしまえば身長差と黄昏時の薄暗さも手伝い、嘉神にはレンの顔は見えない。
確かにここ数日、嘉神が留守にしていたことでレンは少々機嫌が悪かった。
しかしその理由を聞けば仕方がない、と思う。
それに。
――………………
改めて執事としての嘉神を思い返し、レンの頬がほんのりと染まる。
――執事の慎之介も、素敵だった。
執事としての嘉神の口調と表情は、仕事や戦っているときのそれと似ているけど、違っていた。それはとても新鮮で、嘉神の新たな一面を見た気分で。
それに、あのように、まるでどこかのお嬢様のように執事に――それも嘉神に――かしづかれるのはレンとて悪い気分ではない。嘉神の言葉ではないが、レンも楽しんでいたのだ。
「…………」
そおっと顔を上げ、レンは嘉神を見上げる。白い手袋をはめた嘉神の手を握る。
秘密にしたことは忘れて上げる、そう告げる代わりに。
嘉神からもレンの小さな手は握り替えされる。レンの気持ちは伝わったことを示す、嘉神の答えであった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ちいさなおまけ
濃さを増していく宵闇の中、レンは嘉神を見上げる。
「なんだ?」
嘉神の声と同時に、嘉神のレンと繋いでいない方の手、にある紙袋を見る。そしてまた嘉神を見上げ、小首を傾げる。
紙袋の中にあるのは、黒い燕尾服。
「……たまになら、な」
苦笑する嘉神とは対照的に、レンは嬉しそうにぎゅ、と嘉神の手を強く握った。
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