誕生日ログ

ある穏やかないつも通りの特別な一日

―― 朝 ――
 嘉神慎之介の朝は早い。
 日が昇る前に起き、中庭で剣の鍛錬をする。
 使用人(式神)が朝食の準備をすませるまでの二時間ほど、黙々と剣を振るう。
 鍛錬に励むのは剣の腕が四神の一人、朱雀としての役目に必要だからだけではない。平時にあっても気を緩め過ぎることがないように、また己自身を二度と見失わぬよう、常に己を磨き続けるという意志が嘉神にあるからだ。
――……ん?
 鍛錬を初めて小一時間ほどして、視界の隅に入った姿に、嘉神の手が止まった。
 テラスに、レンがいる。いつもなら朝食の時間まで寝ているはずなのに起きているとは珍しい。
「…………」
 嘉神と視線があったレンは、気にしないで、と言うように首を振る。
――……ふむ。
 たまにはレンも早起きしたいこともあるのだろうと思うと、嘉神はまた鍛錬に戻った。
 それから更に一時間。朝食の支度が出来たと使用人が報告に来て、いつも通りに嘉神は剣を鞘に収めた。
「…………」
 駆け寄ってきたレンが、タオルを差し出す。
「……あぁ、すまんな」
 珍しいどころか初めてのことに戸惑いつつ、嘉神はタオルを受け取った。
――猫らしい気まぐれ……なのだろうか……
 
―― 午前 ――
 朝食後、普段は嘉神は四神としての仕事を片付けることにしている。
 地獄門を封じる結界を確認し、現世に地獄門を脅かすものが出現してないかを術式で探査する。必要ならば怪しい場所へは実際に赴いて調査もする。今までは滅多なことには起きてはいないのだが、警戒するにこしたことはない。
 その他の仕事としては幾つかの書類――他の結界の修繕や構築の依頼、承認、魔道学者からの地獄門の調査研究の報告など――に目を通したり返事をしたり、来客への応対、あるいは逆に嘉神から出かける、等といったものがある。
 ちなみに嘉神が仕事をしている間のレンは、彼女の好きに過ごしているようだ。外へ出かけたり、屋敷の中をうろついたり、どこかで昼寝をしたり、と。今日は嘉神が仕事をするこの書斎の窓際の椅子に腰掛けて外を眺めていた。
――最近は報告の書類が増えたな……MUGEN界の法則の新たな研究が進んでいると先日タバサが言っていたが、その影響だろうか。
 書類から目を離し、嘉神はレンが見ていたのと同じ書斎の窓の外に目を向ける。
 様々な世界、人、人でない者――それらが共に同じ法則の下で生きるこのMUGEN界。決して浅い歴史ではないが、まだまだ知られていない法則、研究の進んでいない法則はある。それらが明らかになることでより発展するのか、それとも危機がもたらされるのかは朱雀の守護神とはいえ、人の身であることに変わらない嘉神にはわからない。
――願わくば、より良き方に発展することを……ん?
 窓際の揺り椅子にいたはずのレンの姿がないことにようやく嘉神は気づいた。どうしたのかと視線を巡らしあけたところへ、りりん、と鈴の音が響く。その音と共に机の上に置かれたカップに、嘉神は置いた主に目を向ける。
「…………」
 銀製の丸いお盆を持ったレンがそこにいた。お盆には、クッキーが盛られた菓子皿とカップがもう一つ。
 時計を見やれば、十時を少し回ったところだ。
――ふむ?
 十時頃にレンがお茶を、というかそれに伴う茶菓子を欲しがるのはいつものことだが、準備するのは使用人か嘉神自身だ。レンが自分で持ってくるのは珍しい。レンが気に入った茶菓子がある時に、まれに手伝うぐらいである。
「…………?」
 見つめる嘉神の視線に、レンが首を傾げる。
「そうだな、一休みするか」
 嘉神が見ていた書類をひとまとめにして脇に退けると、レンはもう一つのカップと菓子皿も机の上に置いた。
 そして椅子に座った嘉神の股の上によじ登る。
「もう一つ椅子を持ってくればよいのに」
 苦笑しつつ言ってもレンに聞く耳はない。もっとも、嘉神も半ば諦めての言葉ではあったのだが。
 もうレンは、カップを――いつもと同じ、ミルクたっぷりのミルクティ――手に持って、ふーふーと息を吹きかけている。
 その様子を視界の端に、嘉神もカップを取ると口をつけた。嘉神のカップにはストレートティが入っている。
――……ん?
 味がいつもと違う。茶葉はおそらくキームン。味はいいが、嘉神の淹れ方とも使用人の淹れ方とも味わいが少し違う。
 嘉神でなければ使用人でもない。となれば残るのはレンだ。
 嘉神はレンに淹れ方を教えたことはあるのだが、実際に彼女が淹れることはこれまではほとんどなかったのだが――
「レン、これはお前が淹れたのか?」
「…………」
 レンは一口ミルクティを飲んでから嘉神を見上げ、小さく頷いた。
 そして、また小さく首を傾げる。
 おいしくない? そう問うレンの眼差しに、嘉神はゆっくりと首を振った。
「いや、いい味だ」
「…………」
 すっとレンは顔を戻すと、またカップに口をつける。
 ミルクティに少しはにかんだようなレンの表情が映ったのが、嘉神には見えた。

―― 午後 ――
 午前の仕事を終え、昼食も取り終えた午後は嘉神はのんびりと過ごすことが多い。
 だが午前で片付けきれなかった仕事があれば続きをする。今日は書類がいくつか残ったのでまずは片付けようと嘉神は書斎に足を向けた。
「…………」
「レン?」
 袖を引いたレンに、嘉神は足を止める。
「…………」
 どうも今日は朝からレンは一緒にいようとしている。そういう気分の日なのだろうと思いながら嘉神は答える。
「わかったわかった。ただし、邪魔をするな」
 嘉神の答えに、レンはぐいぐいと嘉神の腕を引いて歩き出す。弾むような足取りに、苦笑しながら嘉神は書斎へと向かった。

――これで終わり、だな。
 今日最後の書類の処理を終わった時には時計は二時を回っていた。
「レン、終わった……」
 レンの方を振り返りながらの言葉は、自然と小さくなる。
 午前と同じく窓際の揺り椅子に座っていたレンが、そこで眠っている。
 窓から差し込む日の光は柔らかく、あたたかだ。猫でなくとも眠くなるのも仕方がない。
――今日はレンにしては朝が早かったしな。だが、このままでは寒いかもしれんな……
 部屋に暖房は入っているが、そのままにしておくのは忍びない。嘉神は椅子の背に掛けてあった自分のコートを取ってレンにそっと掛けてやった。顔に光が当たらないように、少しカーテンも閉めてやる。
「…………」
 僅かにレンは身じろいだが、起きる様子はない。
 寝かせておいてやろうと、嘉神は自分の椅子に戻ると机の上の本に手を伸ばした。
 今日はここで読書するのも悪くない。
 ところが。
――……昼寝する猫は、催眠光線を……出していると言ったのは、どこの誰だったか……
 いくらも読み進めないうちに、嘉神もうとうとしだし、本を手にしたまま眠ってしまった。

 結局二人は、使用人がお茶の時間だと告げに来るまで――四時頃まで使用人は待ったらしい――あたたかな書斎で居眠りをしていたのであった。
 お茶の時間と知ったレンはチェアから飛び降りると、一目散に食堂へと駆けていく。一日に二度ある、レンの楽しみな時間なだけに仕方がないと嘉神は苦笑する。
 だが、レンが急いだのは楽しみなだけではなかったらしい。
 遅れて食堂に入った嘉神が目にしたのは、いそいそと紅茶の支度をするレンの姿であった。
――む?
 いつもとは違うレンの行動が続くことに、さすがに嘉神の顔に怪訝な表情が浮かぶ。
――とは言っても、別に悪いことをしているわけではない……
 それだけにわざわざ問いただすのはためらわれ、怪訝なものを抱えたまま嘉神は席に着き、いつもより遅いお茶の時間をレンと共に過ごすのであった。

―― 夜 ――
 お茶の時間が遅かったので嘉神は夕食もいつもより遅く、そして軽めに済ませることにした。
 だがしかし、それでも食後のお茶は欠かさない。
 そしてまた、レンが紅茶を淹れている。
 もうずいぶんと慣れた様子のレンの手つきを見ながら、嘉神はとりとめなくレンがそんなことをする理由を考えていた。
 猫の気まぐれ、にしては続きすぎている。何か意図があるような気もするが、悪戯めいたことではなさそうだ。
――なんだろうな……
 嘉神が考えている内にレンはカップに紅茶を注ぐとまた早足に食堂を出て行った。かと思うと、すぐに戻ってくる。どうやら使用人に頼んで、外で何かを用意させていたものを受け取ってきたらしい。
 用意させていたもの――今レンの持つ銀の盆の上にある――それは、丸いケーキ。モカクリームでシンプルにデコレートされている。
 ケーキの上にはチョコレートのプレート。書かれた文字は

 Happy Birthday Shinnosuke

「……あぁ」
 その文字を見てようやく、嘉神は今日がなんの日かを思い出した。
 二月二十二日、今日は嘉神の誕生日だ。
 自分でわざわざ祝うこともなく、他人に祝ってもらう気も無かったため、すっかり忘れていたのである。
 思い出すのと同時に、今日一日のレンの行動全てに今納得がいった。レンは嘉神の誕生日を祝っていたのだ。その最後の締めがこのケーキ。
 わかってしまうと、何とも言えない喜びが嘉神の胸の内に広がる。人に誕生日を祝ってもらうなど、どれぐらいぶりだろうか。しかも祝ってくれるのは、レンだ。嬉しくないはずがない。
 ケーキを捧げ持つようにして、しずしずと歩み寄ってきたレンは、銀の盆ごとケーキを嘉神に差し出した。
「…………」
「ありがとう、レン」
 恭しく嘉神はケーキを受け取った。
「今日一日のことも、な」
「…………」
 嘉神の言葉に、僅かにレンは視線を逸らす。しかしその口元がいつもよりゆるんでいるのが嘉神には見えた。
 だから、言ってやる。
「レン、一緒にケーキを食べようか」
 そう言われると、すぐにレンは嘉神を見上げ、大きく何度も頷いたのだった。

――誕生日か。悪くない、ものだな。
 レンが淹れた紅茶を飲み、レンが用意したケーキを食べ、美味しそうにケーキを食べるレンを見つめて嘉神は思う。
 今日は人生最良の誕生日だと。

 
―― そして ――
 居間の暖炉では薪がぱちぱちと音を立てて燃え、部屋は心地よいぬくもりに包まれている。
「レン、一つ頼みがあるのだがな」
 そのぬくもりの中、ソファで二人してくつろぎ、嘉神はレンに言った。
 なあに? というように小首を傾げるレンはソファに仰向けに横になった嘉神の上に乗っている。
「これから毎朝、今日のようにタオルを持ってきてくれないか」
 えー、とレンの口が形作るのを見て、嘉神はクックと喉を鳴らして笑う。
――さすがに毎朝あの時間に起きるのはレンには辛いか。
「ならば、たまにでいい。今日のように茶を淹れてくれるか」
「…………」
 それなら、とこくりとレンは頷く。
「うまかったからな。また、飲みたい」
 そう言う嘉神の胸に、レンは額を押し当てた。顔を隠しても、隠しきれない耳がほんのり赤いのが見える。
――可愛いことだ。今日一日のことといい……
 レンにこんなに色々計画する一面があるとは嘉神は思っていなかった。共に暮らしてそれなりの時が経っているというのに、この愛しい使い魔はまだまだ嘉神にいろんな顔を見せてくれる。
――もう一つ望みがあると言ったら、どう答えるだろうか。
 レンのさらりとした髪に嘉神は指を絡める。青銀の髪をもてあそびながら、心の内だけで望みを呟く。
――ずっと共にいて欲しい。
 今日そうであったように、ずっと。来年も、その次の年も、また誕生日を祝って欲しい。最良の誕生日を、何度でも迎えたい。
 すると、その声が聞こえたわけでもないだろうに、レンは顔を上げた。
 嘉神の顔に顔を寄せると、猫のようにぺろりとその頬を舐める。
「こら、くすぐったいぞ」
 嘉神が言えば、レンはまた嘉神の頬を舐めた。心の望みを受け入れられた気分で嘉神は自然に笑みを浮かべる。
「…………」
 と、すっとレンは嘉神から顔を離した。
「…………」
 じいっと嘉神を見つめ、目を閉じる。
「…………レン?」
「…………」
 目を閉じたままのレンの唇が、小さく動く。
――ご、ほ、う、び……か?
 読み取れた言葉は、それ以外にならない。
――……む……
 嘉神の動きが止まる。その視線が軽く泳ぐ。
 レンはじっと待っている、ようで微妙に顔が嘉神の顔に近づく。
 嘉神が根負けするまで、さほどの時間はかからなかった――
 

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